どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

(短編小説)『ジャコビニ流星雨が見えない夜』(3)

2019-04-13 01:58:55 | 短編小説

 机にたまった埃が差し込む光に白く浮いていた。煙草の灰も落ちた位置で崩れかけている。むしり取った帯封、読みかけの経済誌、用済みの原稿などが散乱し、それらの猥雑な配置の中で、真新しい背広を着た穂積隆三が話し続けた。

「・・・・まあ、信じてもらえるかどうかわからんが、わたしは実のところ流星雨を見たも同じだと思っているんだよ」彼は眼前にその光景を描こうとでもするように、肘を伸ばし、掌をひらつかせた。「いやいや、たしかに空は曇っておったよ。だから現実そのものじゃないんだが、わたしにとっては流星雨にも勝るすばらしい空に出遭ったというわけさ」

 慎介は穂積の高揚した口調をどう受け止めたらいいか判断しかねて、永末の表情をうかがった。しかし、永末も慎介と同様で、穂積の見たという光景に心を動かされた気配はない。社長がどう思おうと、流星雨が現れたかどうか事実のみに興味があった。

 それでも慎介はうなずいた。納得したわけではないが、穂積の内面がおぼろげながら理解できる気がした。

「三上くん、あの空、あの海の上の夜空はねえ、見慣れない星までが何かのために寄り集まってきたのじゃないかと思うほど、すごいものでしたよ・・・・」

 遠くを見るような目をする社長を前に、慎介はある種の共鳴を感じた。見ようとする心があれば、どのような非現実でも見えるのかもしれない。まして穂積のように忘れえない思い出とあらば、なおさらのことだろう。記憶と現実が溶け合う作用は、穂積にかぎらず往々にして見られる現象であった。

「まあ、特別だったんですね・・・・」永末がとつぜん相槌をうった。

「そうそう、たしかに視たんだよ」穂積はチラリと永末に視線を走らせた。

「わたしは人が独自の生き方をできるのは、せいぜい二十歳前後までじゃないかという気がするんだ。あとは他人の人生を盗むか、真似するぐらいのことだと思うがどうだろうかね」と慎介を振り返った。

「はあ?」彼は穂積の言葉をよく理解できなかった。将来にまだ漠然とした希望を抱いている彼は、穂積の独特の表現を受け入れるわけにはいかなかった。

「すみません。ぼくは幾つになっても転機はあると思うのですが・・・・。それが独自なものかどうかは別にして」

「そうか、年寄りが決めつけちゃいかんわな」

「いえ、そんなつもりでは・・・・」

「いいってことさ。いずれ君たちだってゲヌアの町に還ることになるんだから」隆三は二人の怪訝そうな表情を見てかすかに笑った。

 ゲヌアの町・・・・。慎介は、穂積がキリスト系大学の出だったから、たぶん宗教に関係しているのではないかと想像した。ガラリヤとかゲッセマネとか旧約聖書に登場しそうな地名のような気がした。

 ゲヌアの正体がわからないまま同調するのは気が引けたが、穂積に試されている気配を感じ、あえて会話に乗っていった。

「いずれにしても社長、ジャコビニ流星雨はいろいろのものをもたらしたようですね」

「そうだね。いろいろね・・・・」慎介に向けられた目の中に、笑みの残滓がちらついた。

「三上くん、わたしはもう一つびっくりするものを見たんだが、わかるかな」

「さあ・・・・」

「いや、家内と二人で夜の公園の散歩としゃれこんだのだのはいいのだが、あやうく道端で人にぶつかりそうになってね」穂積は昨夜の公園の暗さについて熱心に説明した後「・・・・立ったまま抱き合うアベックだったんですよ」

 ほう、と慎介は驚いてみせた。なんだ、そんなことかという侮りを心の底に秘めて。

「しかし、びっくりしたのはわたしらだけで、向こうはまったく平気なのさ」

「それはそうでしょう。いまどきの連中なら」

「どうも、三上くん、ただ抱き合っているのと違って、セックスしてたんですぞ」

「えっ?」

「家内がそれを見て、いきなり笑いだしてしまってね」

 穂積の顔面に脂が浮き、わずかに呼吸も弾んでいた、慎介はその興奮の仕方に何かそぐわないものを感じた。百戦錬磨の策士のはずが、人間の根っこの部分で無防備さを露呈している。生々しいうえに痛々しい。慎介は思わず目をそらした。

(・・・・流星雨も顔を見せる気にならないか)

 社長の提供する話題に付き合うのもここまで。・・・・彼は区切りをつけて窓のほうを見た。きのうとは大違いで、正面に回った日の光が模様のついたガラスを透して屈折し輝いている。その極微の粒子を、ときおり何かの影がよぎる。社長の自宅に事務所を建て増しした一室に、それぞれの思いを抱えた三人の男が憮然とした表情で突っ立っていた。

 

 この時期には、どうして憂鬱なことが起きやすいのか。・・・・慎介は出がけに味わったキシコとの気まずいやり取りを思い出し、胸の中にも影が忍び入るのを感じた。そろそろ破綻が来るのではないかという思いが、脳裏に張り付いている。そうした不安は彼女との出遭いのときからあったわけだが、克服できると信じたその時の情熱が、同じ質量で逆の側へ傾斜しようとしていた。

「きみは夜の公園なんて行かないだろうね」

「いえ・・・・」慎介は行かないというつもりが、どちらともとれる返事になってしまったことに気づき困惑の表情を見せた。

「秋とはいっても、夜は冷え込んでね。それなのに、若い人は元気なものだよ」と、永末に話を振った。

 二人で笑う声が、いまの慎介には煩わしかった。

「ああしたアベックのうち、いったい何組のカップルがゴールインするのかな」

「さあ、どうでしょうかね」彼はうわの空で返事をした。頭の中にあるのは、自分とキシコのみじめな成り行きだけである。誰にも向けられない怒りが、発作的に彼を襲った。「・・・・だいたい、あんな公園で身体をまさぐりあった仲じゃ、お互いに信用なんてできやしませんよ。そうでしょう、社長?」

「おや、これは手厳しい。三上くんは意外と保守的ですな」穂積の瞳の奥で笑いがひらめいた。

(どうでもいい。他人にわかるはずがない)慎介は腕を組んで苦い思いを抱え込んだ。苦渋は体の隅々まで染み入っていて、うっかり触られでもしたらビューっと振りまいてしまいそうである。「いやなことだ」と身震いしたとたんに、忘れかけていた二日酔いの嘔吐感がこみあげてきた。同時にめまいがし、公園のベンチにルーズに腰かけていたキシコの顔が、渦の底から浮き上がる。すっかり参ってしまった彼は、前かがみの姿勢で胃のあたりを押さえた。

「おい、どうした?」穂積の声が遠くから聞こえた、「・・・・具合でも悪いのか」

 慎介は机につっぷして、一瞬気を失ったようだ。永末に肩をゆすられて、薄闇の中から浮上した。貧血ででもあったのか、頭の中が空白になっている。しきりに何かを思い出そうとして、彼は息をひそめた。

「社長、ぼくはゆうべジャコビニ流星雨を見損なったんですよ」やっと言葉を探り当て、ほうっと息を吐いた。「もうだめです。あれはまた何年も過ぎてからでないと現れないんですから・・・・」

 彼の様子が奇妙に見えたのか、穂積も永末も声をかけかねていた。それを慎介もぼんやりと意識した。

「まったく。・・・・長い間待ち焦がれていて、そのくせ肝心な時に失敗するということもあるんですね」

「しかし・・・・」と穂積が珍しく口ごもった。「しかしきみ、昨夜は誰も見られなかったんだから、落胆することないじゃないか」

「いえ、社長はたしかに流星雨を見たとおっしゃいました。そして、それはぼくにもよくわかります。幸運なことですよ」

 不思議なことに、彼はこの時あらゆることを見透せる気がした。視界を覆っていた霧が吹きはらわれ、目の前にものの存在を実感したときの静かな驚きがあった。

 かつて、最も激しかったデモの最中にも、彼はいまと同じ感覚を味わったことがある。竹竿にすがって運命を担いあった仲間の隊列が、彼の鼻先でいきなり機動隊になぎ倒された。すると、それまでまったく気づかなかった夕暮れの空が、透明な青さをたたえてぽっかりと開けたのだ。

 彼はその場の粗暴な状況を忘れた。機動隊員の存在も、仲間の肉体も、己の危険も忘れた。周囲の暗さのなかで、奇妙に明るさを残す空だけがあった。彼はその時も何かがわかったという啓示に打たれた。そこにある実態を理解するというのではなく、遠く離れていたものが瞬時に自分の中に飛び込んできた感覚だった。

 慎介は穂積と向かい合っていたが、瞳ははるかなものを見ていた。暗い空間に漂い出た舟のように、自分の魂が孤立と解放を味わっているのを見ていた。

「どうも三上くんは疲れているようだ。何があったか知らんが、無茶はいかんよ。さあ、あとはいいから家に帰って休みなさい。すべては連休明けからだ。わたしも相談があったんだが、それはみんなが揃ったところでやるとしよう」

 慎介はすなおに立ち上がった。この率直さが強さであればいいと願う。しかし、彼が授けられたものが強いものか弱いものかまったく見当もつかない。日常を積み上げてきたレンガが、彼の意志を超えていつガラガラと崩れないとは限らない。啓示のように感じた透明な空が、いつまでも彼の内面にとどまる確証はなかった。

 このような時、穂積ならどのように対処するのだろうか。運命がいじめにかかってきても、やはりじっと耐え抜くのだろうか。断片的に聞き知った穂積の苦難は、慎介の苦労などとは比べ物にならない濃度を持っている。女房一人を持て余して気を失いかけた失態が、なおも胆汁のようにこみあげてきた。

「さあさあ、帰れるかな」穂積がいたわるように声を和らげた。

「たいしたことありませんよ。ぼくの疲れなんて、たいしたことないんですから」自嘲とも受け取れる返事をして、誰にともなく頭を下げた。

 事務室を出ながら、これから自分は家に戻るのだろうかと自問した。

 生垣沿いに重い体を運ぶ。垣根の内側から、笹の葉が鋭い切っ先を突き出してくる。この会社へ勤め始めてから五年は過ぎたろうか。毎年刺さるように伸び出る笹の葉を、無意識のうちに嫌っていた気がする。

(こいつ、今までも敵意をもっていたんだ・・・・)

 子供のころ薄目でまわりを見回すと、それまで見えなかったものまで見透せる気がした。同じように今の彼には、多くの疑問や悩みが原因まで見透せる。このまま家へ帰れば、キシコがどんな表情を見せるか、それに対して彼がどんな言葉を吐くか、すべてが目に見える。

 そのとき太陽はどの角度から光を向けてくるか、借家の屋根はどんな色で秋空の下にたたずんでいるか。日陰の軒下を風が吹き抜けると、枯れ始めた朝顔の葉がチリチリと音を立てるはずだ。物干し竿の下着が風に弄ばれ、その下で壁に立てかけられた自転車が、銀色を鈍くしているに違いないと思った。

 

     (おわり)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (短編小説)『ジャコビニ流... | トップ | ポエム231 『ハマナスと恋女... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短編小説」カテゴリの最新記事