どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

『ヘラ鮒釣具店の犬』(2)

2005-12-31 17:37:16 | 短編小説
 毎週水曜日の午後三時からと定まっているシナリオ講座を除いて、他の時間は基本的に自由であった。
 朝、ゆっくりと起きて、ホットミルクとトーストの朝食を摂る。副菜は、ボイルドエッグにロースハム、トマトにレタスといったサラダになることが多かった。
 妻がマンションを出て行ってそのままの独身生活だから、食事のメニューは単調になりがちだ。ミルク紅茶やスクランブルエッグ、ツナやグレープフルーツに変わるぐらいで、パン食主体の食事スタイルはずっと一貫している。その分、昼と夜は行きあたりばったりで、生徒と一緒に駅ビルのレストランで和風ハンバーグを注文したり、日本そば屋で天ざるを取ったりさまざまだった。
 その日、桂木は依頼された原稿を正午過ぎに書き上げ、郵便局に立ち寄って速達で差し出した。そのまま散歩に出るつもりで家を出たから、コットンパンツにスニーカーという軽装だ。
 例年より二週間も早く桜の満開を迎えた公園近くの並木道も、今はその時の賑わいが嘘のように疎らな人通りになっていた。
 桂木の散歩は、もともと裏道を組み合わせたもので、幾とおりかのコースが出来上がっている。時間や気分で随意に選んでいるから、見知った顔と会うことは滅多になかった。
 この日も、すれ違ったのは犬を連れた老人夫婦と、競歩ふうに腕を振るジャージー姿の中年女性だけだった。
 有名になりたいという野心は、まだ衰えていない桂木だが、誰にも知られない存在として潜むことは別の愉しみがある。そのことを意識できるのが散歩の醍醐味のひとつである。
 サクサクと足を運びながら、見られることのない開放感に浸る自分を見つめている。屈折した快感が地面にアースし、たちまち体が透明になったように感じられる。独身生活を保ちながら、この地に居を移したことを、充分に満足していた。
 桂木の頭には、もうひとつ散歩の中で育てた明確な望みが芽生えていた。それは、公園の裏手の、そこも東京都の管理地の一角に群生する花大根を、わが家のささやかな庭に移植したいという願いである。
 雑草に近い生え方に見えるが、意図して角地に播いた気配も感じられる。いつ頃から、そこに群生しているのか。当初は人間の意思があったとしても、今は自生に近いのではないか。無断で掘り起こし盗み去ることの罪の多寡を推し量りながら、桂木は花大根のそばを通り過ぎた。
 二度、三度と泥棒のように下見をしたすえ、彼はついに盗みを決行した。先週のことなのだが、今にも雨の降り出しそうな薄暗い午後、桂木はビニールコーティングされた買い物袋に園芸用シャベルを忍ばせ、サングラスと帽子で顔を隠して家を出た。
 大根の花が咲いている一角は、管理地といってもフェンスの外側で、人目がなければ容易に掘り出せる場所であった。
 桂木は人の近付く気配がないのを見定めて、地面にシャベルを差し込み、二株ほどを土塊ごと掘り起こした。
 ザクッという小石の音が、胸の内側に響いた。鼓動が増幅されて、メトロノームのように耳を打った。
 思わず眼を上げ、周囲を窺う。向かいの細道を風の通り過ぎるのが見え、さらに奥の暗がりを感じた瞬間、何者かにじっと視られているのを感じた。
    (続く)

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