黒猫の「白亜」は、東京から主人と一緒に軽井沢にきて、馴れない環境に戸惑っていた。
猫用のゲージを出たとたんに、どこから流れ込んでくるのか湿った木の香りを嗅いだ。その匂いは、これまでに嗅いだ人工的なものと違って魅惑的で、「白亜」の官能をうっとりとさせるものだった。
(この匂いには覚えがある・・・・)
早速、広いリビングルームを探検することにした。
フローリングの床は適度に冷えていて、肉球に心地よかった。
部屋の隅にカーペットが敷かれていて、その場所と収納棚の上が自分の安息スペースになりそうな気がしていた。
とりあえず南側の窓の下に歩み寄って上を見上げてみる。むき出しの丸太が整然と組み上げられ、なぜか興奮を覚える。
自分でも理解できない衝動が肩の辺りに湧いてきて、ムズムズ、ムズムズと前肢の先まで降りてきた。
「白亜」の居る位置の反対側、つまり北側の正面には暖炉が切られている。あまり使うことのない施設だが、煤けた感じのレンガの様子から先代の主人が使っていたと考えられないこともなかった。
いずれにせよ、いまは真夏である。
東京を逃げ出してくるほどムンムンする夏である。
カリスマ・エステティシャンとして人気のある主人だから、ほんとうは恵比寿の本店に腰を据えているべきなのだが、たまに新幹線で戻って行って弟子たちの仕事ぶりを抜き打ちでチェックするのも、緊張感をもたらすよい方法ではないかと思うようになっていた。
「白亜」が主人の胸中を見てきたように言えるのにはわけがある。
もともと道楽のように始めた仕事が大当たりして、テレビや雑誌の取材で引っ張りまわされていた主人が、夜遅く帰ってきて真っ先に「白亜」を抱き上げ頬ずりをしながら耳元でささやくからだ。
「わたしが東京に居ない方がいいの。直弟子に競争させておけば、みんな一生懸命働くものよ。それに、わたしはお前といるのが一番好きなんだから。・・・・ほんとよ」
抱き上げられ頬ずりされるのも嫌いではないが、毎日二人きりで生活するのはけっこうしんどいものがある。
美食と運動不足で怠け癖が付き、近頃では主人の膝の上から逃げ出すほどの根性もない。
それでも、できることなら外に出て街をパトロールしてみたいという望みは忘れていない。
麻布十番の高層マンションに住んでからは、目に映るのはビルの窓と雲ばかり。夜になって、主人に抱かれて夜景を見るぐらいが関の山だが、ほんとうは地面に降りて中学校の植え込みや蕎麦屋の裏路地を探検してみたかった。
「まあ、きれい。こんな一等地に住めるなんて夢みたい」
主人は毎夜ため息をもらすのだが、「白亜」はそれほど感動を覚えたことはないのだ。
ほっとするのは、主人が隣の部屋で長電話を始めたとき。気の置けない友人のエミちゃんから掛かってきたり、こっちから掛けたり・・・・。
銀座七丁目の高級クラブ『アンドロメダ』も、近頃の金融危機ですっかり客足が遠退き、「頼りは○○省のキャリア官僚と商社マンだけなの。だからあなた、テレビ局のディレクターとか芸能人とか景気のよさそうな人たちを連れて来てよ」と愚痴をもらしたり、お願いされたりする間柄。
森の中では携帯電話が通じづらいから、主人は貴族風の電話器の前から離れられない。
スツールの上で「白亜」を抱いたまま膝を開いているが、やがて疲れて尻をモゾモゾ動かし最愛のペットへの献身も怪しくなる。
これ幸いと膝を降りてリビングルームに戻った「白亜」は、肩のムズムズをもてあましながら壁の丸太を下から見上げた。
さっきから気づいていたが、高い窓枠の上部に蜘蛛の糸がぶら下がっている。
もともと部屋の角の高い場所に張られていた古い巣が、破れて垂れ下がってきたのだろう。
どんなに掃除をして帰っても、一冬越せば虫たちの侵入に曝されることになる。
主人が蜘蛛の巣に気づかなかったことを非難するわけではないが、心ここにあらずの人間や視力の弱い犬たちには発見できない場所なのだ。
その点猫族は優秀で、血筋のよい自分が真っ先に発見するのは当然のことと「白亜」は思っていた。
それはそうとして、初めて見る隙だらけの空間をまえに「白亜」の興奮はしだいに高まっていた。
窓の下から白く光る蜘蛛の糸を見上げていると、なんとしても飛びついて振り払いたくなるのだ。
こんな鬱陶しいものを頭上に置いたまま放置することなど、とうてい許せるものではない。
「白亜」は、仔猫時代の自分の俊敏さを想い浮かべながら、身を沈めて上目遣いに目標までの距離を測った。
(いける!)
直径三十センチはある丸太に爪を引っ掛けて一気に駆け上がり、次の瞬間窓枠を足場に体をひねって蜘蛛の糸に飛びついた。
だが、彼は跳躍空しく落下した。
記憶にある己の能力に及ばなかったのだ。
「どうしたの、だいじょうぶ?」
主人が驚いた様子で隣室から声をかける。電話の相手に事情を告げて急いで確かめに出てきた。
「何かあったの!」
(なあに?)という顔をして、「白亜」は暖炉の前に座っていた。
主人は「白亜」のとぼけた態度を見破って、疑い深そうに部屋を見回した。
そこで初めて、窓から射し込む薄日に浮かぶ塵を発見した。
「まあ・・・・」
さらに上部の木組みの角から垂れ下がる蜘蛛の糸にも気がついた。「いやだわ、部屋の中まで蜘蛛の巣が張るなんて・・・・」
母の代から受け継いできた別荘も、そろそろ建て替えたほうがいいのではないか。目玉をぐるりとまわして、主人は頭の片隅で考えている様子だった。
有名になると同時に得体の知れない取り巻きが増えてきて、隙あらば主人の財産にむしゃぶりつこうとしていた。
対する主人は「白亜」とエミちゃん以外にこころを開いたことがないから、誰がどんなアプローチを試みても何なく撃退してきた。
誘惑の種類は十種にあまる。
銀行や証券会社からは投資信託をはじめさまざまな儲け話を持ってくるし、不動産関係の知り合いは共同出資で渋谷に「総合美容ビル」を建てないかと再三誘ってきていた。
日本橋の商品取引会社から穀物や原油相場の話、貴金属会社からも金や白金への投資話、宝石アクセサリーの有名店からはずばり億単位のダイヤを売り込みに来たりした。
化粧品会社は、新開発の美容液売り出しに主人の名前を使おうと躍起になっていたし、健康食品会社はダイエットを謳い文句にした海草由来の新商品を、通販会社は主人の特別推薦コーナーを設けて関連商品の売り上げ増を狙うなど、思惑丸出しのアプローチが渦巻いていた。
主人が一番もてあましたのは宗教家と自薦他薦の結婚申し込みだった。
あからさまに接近してくるならわかりやすいのだが、遠まわしの甘言や不安の醸成でニッチモサッチモいかない状況に陥れようと策をめぐらしてくる。
日頃からしっかりした信念を持ち、二重三重の防禦壁を設けなければボロボロにされてしまうところだった。
その点、主人には二つの信奉すべき言葉があった。
祖母から直接聞かされて耳に残っている「狸の化粧」と「鳥屋の息子」という格言まがいの言い伝えだった。
はじめの方は、人を騙そうと思って接近してくる者への警戒をうながす言葉で、祖母が勝手に作ったものを母や孫の主人に伝えたらしい。
二つ目も、祖母から娘へ、娘から孫へという流れに違いはないのだが、一部家族以外にもに流布した形跡があって、その意味ではローカル色の濃い教訓といった側面も持っていたようだ。
「おばあちゃんの生まれた村に鳥肉屋さんがあってね、そこの一人息子は親に用事を言いつけられるとハーイって好い返事をするんだけれど、肝心の用事は何一つやらずにそのうち忘れてしまうんですって・・・・」
以来、調子のいい返事ばかりで信用の置けない人のことを、その村では「鳥屋の息子」って言い伝えたらしいわよ。
エミちゃんとの電話のやり取りの中で、主人が母から聞いた言葉として解説するのを、「白亜」は一度聞いて憶えていた。
なんとも消化不良な格言ではあるが、主人の祖母から三代続いてきたことで不思議な重みが備わってきている。
たちまち命脈が尽きそうな言葉なのに、主人の代まで生き延びてきたのは、東北人特有の粘っこさに由来しているような気がした。
すでに存在している格言を使わず、あえて地域内とか家族間にしか通じない暗号風の言葉を好むところに、特有の卑屈さと、気位の高さが感じられる。
「白亜」は主人の中にも、ときどきそうした田舎の血を見ることがある。
エステに通ってくる客を下へも置かず持ち上げる一方、その気になって見栄を張る女どもを内心イナカモノと蔑んでいる様子が窺えるのだ。
田舎出の主人がイナカモノを馬鹿にする。そんな屈折した心理を、「白亜」は猫ながら理解できた。
「おまえは幸せ者よ。何ひとつ不自由させないからね」
何度聞いたことか、と「白亜」はあくびをする。一度では済まずに、もう一度大あくびをする。
「あらあら、眠くなったのね。・・・・あんな乱暴なことをするから、疲れたんでしょう」
どうやら、さっき蜘蛛の巣に飛びついたことを言っているらしい。
ほんとうは、麻布から軽井沢まで主人のポルシェに乗せられて揺られたことの方がストレスになっているのだが、そんなこと、面と向かって言えないので寝たふりをしたのだ。
「わたしはまだ、肌のお手入れしなくちゃいけないから、あなた、しばらくそこに居なさい」
客用のソファーにそっと移された。
今度のテレビ取材が三日後に迫っているから、それまで白く美しい肌を保っていなければならないし、気の利いたアドバイスも用意しておかなければならないようだった。
「白亜」は、主人が寝室に入っていくのを薄目で見届け、安心して本格的な眠りに落ちていった。
(つづく)
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当ブログは《どうぶつ番外物語》と銘打っておられたので、いつもそれを意識して読ませてもらっていましたが、久々に"どうぶつ"登場ですね。
しかも、可愛らしい猫ちゃんが主人公らしい。加えてエステ事業で成功したらしいオールドミス!
それが擬人法で物語が進められていくようなので、興味津々です。
その主人公は「白亜」という意表を突くような名前で、それが今後の話の進展に訳があるような、ないような……。気をもませるところです。
続編を楽しみにしましょう。