どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(5)

2006-11-22 22:51:24 | 連載小説

 住み込みの女中が、急な用事でも思い出してトシオを呼んだのだろうか。
 モトコは、半信半疑の迷いのなかで、女中部屋まで確かめに行こうかと身を起こした。
「いま誰か、ぼくのこと呼んだ?」
 トシオが目をこすりながら、モトコに訊いた。
「坊ちゃまにも、聞こえたのですか」
 モトコは、やはり自分だけの空耳ではなかったと安心する一方、不審の思いがつのって確かめずには置けない気持ちになっていた。
「坊ちゃま、わたしがハナさんに聞いて参りますので、それまでお休みになっていていてくださいね」
 布団を剥いで抜け出しかけたモトコに、トシオが縋りついた。
「行かないで! ぼく、怖いよ」
 一方の手で耳を押さえるようすが、モトコに新たな心配を呼び起こした。
 夏のカナブン騒ぎから、もう半年も過ぎたが、高輪の美鈴耳鼻咽喉科医院へは定期的に通っていた。
 一度の手術で簡単に治るものと思い込んでいたモトコは、しだいに間遠になったとはいえ耳垂れが切れない治療の進捗具合に、もしかしたら最新技術を備えた大学病院のほうが好かったのではないかと、白髪の老医師を疑ったりした。
「いつごろまで掛かるか、目安といったものはありますか」
「この子は、二三歳のころ風邪を長引かせたことがなかったかね。最初の急性中耳炎が、気付かれないまま残った跡がある・・・・」
 モトコにも思い当たるふしがあった。トシオが高熱を出して苦しむ姿を、いのちの縮むおもいで見守った辛い記憶だった。
 自分の初子を脳膜炎で死なせているだけに、またも目にする幼児の苦しみに、自分にはこどもを育てる能力が欠けているのではないかと、自信を喪失しかけたときがあったのである。
「鼻にも炎症があってね。それが耳管の働きを悪くしている。いずれにせよ、滲出性体質らしいから、油断していると急性中耳炎を繰り返す惧れがあるね」
 場合によっては、鼓膜チューブ立てをして耳垂れの改善を図らねばならないと脅かされた。初めて聞く医学用語に、余分な想像を回らして怯え過ぎたのかもしれないのだが・・・・。
 そのせいかモトコは、トシオが耳を押さえたりするとドキッとするのだ。中耳炎が再発したのではないか、鼓膜に異常が起きたのではないかと、大仰に反応してしまうのだ。
 しかし、あの声はトシオばかりが聞いたわけではない。「トシちゃん、トシちゃん」と、冬の夜の空気を震わせてモトコの耳にも届いたのだ。
 トシオが怖がるので、ハナさんに確かめに行くのをやめた。
 久しぶりに同じ布団で添い寝をして、坊ちゃまを落ち着かせることに専念した。頭に手を置いて「ヤギさん眠い、眠いのヤギさん」と繰り返すと、トシオは間もなく深い眠りに墜ちていった。
 モトコの口から漏れ出た他愛ないことばが、トシオを安心させるオマジナイのような働きをしている。赤子のときから続いてきた習慣が、現在も有効であるという事実が、却ってモトコを複雑な心境に追いやるのだった。
 あれこれと思い乱れているうちに、居間の方から、六時を打つ柱時計の音が聞こえてきた。
 先代が生きていたころ祝った創業何十周年かの記念品だと聞かされているが、未だに時を刻み続ける精巧さに、モトコは、おどろきの気持ちと鬱陶しさを合わせ感じていた。
 トシオを呼ぶ声は、二度と聞こえてこなかった。
 (おそらく・・・・)と、モトコは隣の仏間に意識を向けていた。
「奥様はまだ、あの部屋にいらっしゃる・・・・」
 魂の存在や、霊界のことを、闇雲に信じているわけではないが、モトコ自身幼いうちから祖母の不思議な言動に接していたから、この世とあの世を明確に区別する意識はあまりなかった。
「ほうら、また誰か死んだぞい。お寺の雨戸に、どーんとぶつかった音がしたろうが?」
 モトコの生まれた家が寺の近くだったせいもあって、そうした会話が日常普通に交わされるのだ。
「墓場のそばさ通ったら、人魂が三つ四つ遊んでいたぞい。今夜は、このまま雨になる。田植えにはお誂え向きだから、はよ寝ろやい」
 村人の腫れ物など、頼まれれば菜っきり包丁一本で治してやる祖母だから、モトコもその言葉に疑いなど一度も持ったことがない。
 患部に包丁の刃を当てて何やら呪文を唱えるだけで、翌日には腫れが引いたと報告に来る。それら村人の晴れやかな表情も、祖母同様に特別のこととは思ったことのないモトコであった。
 祖母の血は、母にも自分にも流れているはずだが、その能力が受け継がれた形跡はない。幼い日に見聞きした不思議な現象が、モトコの身の回りで普通に起こってくれたなら、坊ちゃまの病気などあっという間に治してしまえるのにと、掌を眺めてため息をつくのが精々だった。
 トシオのほっこりした寝顔を見届けて、モトコは寝床を抜け出した。
 女中部屋に行き、明け方の行動を確かめると、ハナさんに即座に否定された。
「そんな、たとい何かあったって、坊ちゃんの名前を呼ぶ前に、モトコさんに声かけるでしょうが・・・・」
「それもそうよねえ」
 ハナさんと一緒に大笑いしたが、胸の中はしんと静まり返っていた。
 (やっぱり奥様は、まだこの家にいらっしゃる)
 怖さはないものの、それを確認する自分の妙な自信のようなものが、気に掛かって仕方がなかった。

   (続く)
 


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