奥様が亡くなったことは、モトコにも不思議な喪失感をもたらした。
当座は、まだ意識の表面に現れていなかったが、トシオの入学先が決まってホッと安堵した心の隙をついて、その感覚は忍び入ってきたのだ。自分の費やした歳月のあやふやさも、表裏をなすように意識されるのが辛かった。
このままでは済まないと、モトコは思った。
坊ちゃまをきっぱりと奥様にお返しし、そのうえで、自分は亭主との関係を見直してみなければならないと決意した。
亡くなった者に返すというのは変な理屈かもしれないが、奥様がこの世にいなくなったことで、自分の役目が終わったことを明確に意識したのだった。
「坊ちゃまが入学されましたら、お屋敷を離れさせていただきたいのですが・・・・」
「それは困る。これからが最も母親を必要とする時期ではないか」
旦那様は、視線を遠くへ向けるようにして呟いた。
「わたしは、母親ではなく乳母です。奥様がご存命のうちは、乳母としてお役に立てるよう努めて参りましたが、亡くなられた以上、もうこちらに留まる理由はなくなったような気が致します」
「しかし、トシオのことはどうする? 誰も世話をする人はいないぞ」
そのように言われることは、モトコも予測していた。
「寄宿舎とか、それに近いものがお有りになるのではないんですか」
「ない。きみに育ててもらうつもりだった・・・・」
旦那様の言葉には、初冬の空気に似た真実味がみなぎっていた。
「すみません。このままでは、わたしも旅先にいるようで落ち着かないのです」
モトコは、奥様の無念と自分の寂寥がいっしょになってこみ上げてくるのを覚えた。旦那様からの給金をあてにして、昼日中から女を引っ張り込んでいるような亭主のもとに戻る気がないことも、不安を増幅させていた。
「とにかく、来年のご入学を区切りにして、これからのことを考えさせていただけませんか」
モトコは、頼りない立場に置かれた自分の心細さを振り払うように、考えを述べた。
旦那様の言うとおり、このままトシオの面倒を見続けることが一番自然なのかもしれないが、それではモトコの気が収まらないのだ。
とにかく、ずるずると居座り続けることはできない。奥様が亡くなった以上、乳母の資格がおのずから失われていったことを、繰り返し思うのだった。
「きみの家庭を、壊してしまったかな・・・・」
旦那様が、心の底まで見とおすような鋭さでモトコを見た。
「いいえ、それはわたしたちの問題ですから」
モトコは、きっぱりと言った。乳母の役が負担なら、早々に断ればよかっただけの話だ。亭主とのことを、誰かのせいにするなど論外のことだった。
その夜のやりとりは、互いに胸に収めて終わった。声高に主張し合うような事柄ではなく、逆に相手の立場を慮ってどこまで引き下がれるかという、潮の満ち干のような心理状態だったのである。
「おやすみなさい」
「お休み」
旦那様が寝室に引き取ったあと、モトコはしばらく居間に留まっていたが、トシオが眠る客用寝室の襖を開けて、二つ並んだ布団の一方に滑り込んだ。
子供部屋は別にあるものの、トシオはモトコに割り当てられたこの部屋以外では、ほとんど寝たことがなかったのである。
モトコは熟睡することなく、夜中に目が覚めた。おそらく午前二時ごろだった。いつものことである。その時刻になると、トシオの眠りが浅くなるので、寝小便の予防に廊下の突き当たりにある便所まで連れていくのが習慣になっていた。
大きな男子用便所のアサガオの前に立たせて、トシオの身体を浮かせた。近頃は、モトコの介添えなしでも小用ができるようになっていた。
入学へ向けて、身の回りのことをひと通りこなせるようにしてやるのが、最後のご奉公と心得ていた。
「坊ちゃま、寒くはないですか」
「寒くない」
鸚鵡返しであっても、昔から比べれば格段の進歩だった。便器の前に立っても覚醒することなく、モトコがうながす「ジョー、ジョー」という声にのって小水を飛ばすだけだったのだから、自分の手で始末できるまで眠気を追い払えるようになったのは、オニイチャンになった証拠だった。
「坊ちゃまは、もう何でもできますよね?」
幾度でも褒めて、自信を付けさせてやる。「・・・・来年からは、小学一年生ですからね。朝もきちんと起きて、学校へ行くんですよ」
戻るとき、再び長い廊下を通る。
納骨の日まで奥様の遺骨が安置されていた仏間が、モトコの部屋のとなりにある。いまは位牌に置き換えられたわけだが、廊下を通るたびに寂しさが意識される一郭だった。
トシオの首まで布団をずりあげ、自分も深々と温もりの中に没する。
冬の夜気は、背中から二の腕まで絡みついていて、モトコは思わず身震いした。いつの間にか、冷えが身体の芯まで浸透していたようだ。大して長い時間ではないのだが、坊ちゃまに付き合っていた実感が確かめられる。トシオを育てている喜びが最も湧いてくる瞬間だった。
「さ、電気を消しますよ」
モトコは、トシオにも念を押してスイッチを切った。
目をつむって、呼吸を細くすると、眠りの精が向こうからやってくるのが常だった。
どれほどの時間が経ったころだろう。モトコは、何かの気配を感じて、もがいていた。
「トシちゃ~ん・・・・」
しじまを縫って、坊ちゃまを呼ぶ声がした。
半ば落ちかけていたモトコは、その声を夢の中で聞いたような気がして、急いで浮上した。
(こんな夜中に、誰が?)と、いぶかる気持ちが強かった。
息をひそめていると、再び声がした。
「トシちゃ~ん」
幻聴などではなく、お屋敷のどこかから、控えめに呼びかけるような細い声音であった。
(続く)
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雇い主家族と乳母の均衡が崩れる予感が、読むものを刺激してきます。これこそ小説の楽しみなのでしょう。そこはかと良いですね。
この先わくわくして待っていますぞ。
知恵熱おやじ