マドンナが案内してくれた施設は、雫さんにとって拍子抜けするほど安心できる場所だった。
もっと病院っぽいか、もっと庶民的かどちらかを想像していたのに、まるで隠れ家ホテルにいるような、優雅な気分にさせてくれる空間だった。
<実際に入ったことはないけれど、繭の中というのは、こんな手触りの優しい光に包まれているのかもしれない。>
しかも、雫さんに用意されていたのは、窓から海が見える部屋だった。
<レモン畑の向こうに、どこまでも海が広がっている。ぷっくりと膨らんだたくさんのレモンが、青空の下でキャンドルの灯りみたいに光っていた。>
思わず(いいなあ)と思ってしまう。
ぼくが知っているいくつかの施設は、人里離れた自然の中にあって空気も眺めも悪くはないのだが、どことなく日陰を連想するような環境だった。
そういえば、雫さんは、ライオンの家に来る前に、ケアマネージャーに相談して海の見える温暖な地にある施設を探してもらった。
提案されたホスピスは、雫さんがそれまで受けてきた積極的な治療や延命行為をしないだけで、痛い時や苦しい時は、その苦痛を和らげるための最大限の策を練ってくれるという。
<・・・・そのことをケアマネージャーさんから聞いて、ホスピスに入ろうという決心がついたのだ。金輪際、痛いのも、苦しいのも、気持ち悪いのも、寒いのも、髪の毛やまつげがごっそりと抜け落ちるのもこりごりだった。>
マドンナは、施設を案内しながら「・・・・医師をはじめ、常時十数名が、スタッフとしてライオンの家を支えております」と説明する。
あらためて、雫さんのような立場の人の切実な思いを痛感し、それに応えようとするライオンの家の方針に頼もしさを覚えた。
ライオンの家を案内されている時に最初に出合ったスタッフは、野菜の入った大きなかごを抱えて廊下を歩いてきた、ふたりのおばあさんだった。
「かの姉妹です」マドンナが紹介した。
雫さんが、かしこまってお辞儀をすると、
「笑わないんですか」かの姉妹のひとりが真顔で聞いた。
雫さんが「え?」というように見返すと、
「だって、あちら様と一字違いなのに、うちら、こんなおばあさんやし、おっぱいも、ぺっしゃんこやしなぁ」
もうひとりの姉妹が口を挟む。その胸元の名札には「狩野」と書いてある。
(なるほど、これは作者のあそびだと気が付く)
当時マスコミに頻繁に露出していた、叶姉妹にひっかけているのだ。
「でも、私らの方が、元祖やわ」
お団子頭のおばあさんが言った。
「雫さんは、お若いからきっと知らないんですよ」
マドンナが言い添えると、ふたりは急にしゅんとなって口を閉ざした。
<この若さでホスピスのお世話になることに、同情してくれたのだろうか。ふたりの顔には、予想外に苦い物を口にしてしまったみたいな、やりきれないという感情が浮かんでいる。>
いつもだったら、いらっとして泣き叫びそうになるのだが、いまはもうそんな元気はない。
雫さんは、いちいち無駄なエネルギーを浪費することに疲れてしまったのだ。感情を爆発させるたびに、命が削られていく。そのことを、肌で実感する。
<だから、抵抗するのはもうやめた。やめて、私は流れに身を任せることにしたのだ。そうやって、流されるままにたどり着いたのが、この島だった。>
ここで、雫さんが死と向かい合うには若すぎることがはっきりする。
前の担当医の見立てが正しいなら、雫さんの命は、梅が咲き、桜が花開くまえに燃え尽きるのだ。
やはり、現実の見せる貌はたやすいものではなく、身が引き締まるものであった。
<私の人生のレールは、着々と死に向かって進んでいる。私はその事実を、人よりも少しだけ早く知ったに過ぎない。・・・・享年、三十三。>
雫さんは、自分の死期をそのように表現した。
狩野姉妹と別れてから、マドンナが補足した。
「彼女たちは、ライオンの家の食事担当です。主にご飯の主導権を握っているのは姉のシマさん、おやつの主導権を握っているのは、妹の舞さん。名前、覚えやすいでしょう。シマ、と、マイ、で姉妹ですから」
(また、あそんでいる)その様子がほほえましい。
作者としては、しんみりとしたテーマを意識したサービス精神なのだろう。
マドンナは、次に木製の大きな扉を押し、雫さんに中の様子を見せる。
「こちらが、おやつの間になります」
「おやつの間?」
「はい、昔の言葉ですと、お茶の間。かっこよく今風に言えば、サロン・ド・テ、とでも言いましょうか」
<毎週、日曜日の午後三時から、ここでお茶会が開かれます。・・・・ゲストのみなさんは、もう一度食べたい思い出のおやつをリクエストすることができます。毎回、おひとりのご希望に応える形でその方の思い出のおやつを忠実に再現しますので、できれば具体的に、どんな味だったか、どんな形だったか、どんな場面で食べたのか、思い出をありのままに書いていただければと思います。中には、イラストを描いてくださる方もおります>
やっと、『ライオンのおやつ』というタイトル命名の秘密が見えてきた。
狩野姉妹の担う役割の重要さも、理解できた。
マドンナは、雫さんの部屋の入り口で、「ガラスケースに、ソを用意してございます。雫さんの到着に合わせて、こしらえました。ライオンの家で、人生の醍醐味を、心ゆくまで味わってください」と、深々とお辞儀をして、雫さんの前から煙のように立ち去った。
(ソ?)そうか、ソ(蘇)だから醍醐味か。
マドンナのやることは、雫さんにも、読者にも意表を突くものだった。
(つづく)
現場を見たことはありませんが、この小説を読んでいると、多くの人が入りたくなるのではないでしょうか。
主人公が30歳を過ぎて間もなくという設定は、気分的に重いのですが、たえず希望が湧きあがってくる内容の連続です。
もうすぐ終章ですので、よろしく。
私の知っているいくつかの施設も、建物は立派で、自然の中にあって空気も眺めも悪くはないのですが、何となく人里離れた”姥捨て山”という感じがしてしまいます。
私も近い将来、この隠れ家ホテルの様な優雅な気分にさせてくれる施設に入りたいものです。
もっとも、ここは一般的な高齢者施設ではなく、延命行為をしないで苦痛を和らげるためのホスピスという特殊な施設なので、お世話になることはないかも知れませんが・・・
主人公が、死と向かい合うには若すぎる人、というのは重たい感じのスタートです。
思い付きで始めたものですから、どこへ漂着するやら?
「・・・・新しいカタチ」とご支持いただき心強いです。
エンディングを知らずに書くことで、目の前の事象に対して自由な受け止めができるので、わくわくしています。
窪庭さんの『ライオンのおやつ1・2』を読ませていただいて気が付きました。
この作品についての紹介スタイルは、ひょっとすると、『読書欄あるいは書籍紹介の新しいカタチ』の登場なのでは?と・・・
1・2・3・・・・と執筆者の感受性の動きの揺らぎに引っ張られながら、いろいろ想像の翼を刺激される。
それがとても楽しい
面白いですねえ―。
ぜひ最後までこのスタイルで突っ走ってください。楽しみにしていますよ。
「ライオンのおやつ」は、発行から約1年しか過ぎていませんので、ロング・セラーとは言わないですね。
これから後も、長く読まれるのではないかと思ったことで、ついロング・・・・と書いてしまいました。
この本ロング・セラーになっているんですね。
一回ごとにテーマを見つけて、味わいたいと思っています。
ありがとうごじました。
昨日、用事があって出掛けたついでに、本屋さんをのぞいてみたら、見つけました~~ 本屋大賞コーナーを! その中に「ライオンのおやつ」が堂々2位として輝いていました~~