どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(13)

2023-07-31 00:06:00 | 連載小説

 ほどなくサンドイッチが運ばれてきた。野菜と生ハムを薄めのフランスパンに挟んだ、オリジナル商品だった。レタスもトマトも新鮮だったし、幾重にも巻いて花弁に見立てたハムは、塩と洋がらしと空気の弾力を味方にして、食べる者を幸せな気分にした。
 カップが大きめだったせいか、残りのコーヒーがオリジナルサンドの味を引き立てた。ミナコさんも、たっぷりの紅茶で軽食の仕上げが出来、満足の表情を浮かべた。
 ミナコさんが支払いを済ませるのを待って、おれはレジ係も兼ねる先刻のウェイトレスに声をかけた。
「いま出て行った男の人、どこかで見たような気がするんだけど、たしか将棋関係のかたですよね」
「ええ、飛田四段です。最近、テレビにも出演しましたから、そこで観られたのでは・・」
 ウェイトレスは、誇らしげに言った。
「ああ、そうだったんだ。ところで、将棋会館って、ここから遠いんですか」
 一番知りたかったことを聞いた。
「いえ、鳩森神社を抜けていけば、すぐですよ」
「わかりました。どうもありがとう」
 おれは、礼を言って喫茶店を出た。
 左手を見ると、信号機の向こうに石の鳥居が見えた。鬱蒼とした木々の重なりに同化していて、そこが鳩森神社の神域であることはすぐに分かった。
「行ってみたいの?」
「うん・・」
「行ってみようか」
 ミナコさんは、先に立って歩き出した。
 おれの関心事は将棋会館なのだが、境内に入って富士塚を見つけると、ミナコさんのほうが夢中になった。熱心に立て札を読み、江戸以来の信仰の歴史をおれに解説した。おまけに、富士山に見立てた岩だらけの築山を登るという。おれも、面白がって付き合った。
「ありがたいわ、お参り出来るなんて。偶然なんでしょうけど、導かれて来たみたい」
 降りてからも、また手を合わせた。
 奥へ進み、本殿らしい堂宇に参拝した。鳩森八幡神社の本体なのだろう。ほかに稲荷の赤い鳥居もあり、先刻の富士浅間信仰の塚もあり、都会の森らしく、狭い空間の中にさまざまなものが押し込まれている印象だった。
 鳩森神社を探索して、横の出口から外に出た。
 自動車がやっとすれ違える程度の道路が延びていた。二十メートルも進むと、もう将棋会館の建物が見えた。
 おれが門柱の横から覘いたとき、年配の男がふたり大声でしゃべりながら建物を出てきた。おれは、とっさにまっすぐ進み、男たちをやり過ごした。
「一度見てみたかったけど、どんなところか分かりました」
 おれは、ミナコさんに偽りを言った。
 日曜日の夕方、客がそろそろ引き上げる時刻である。もしゴトウさんが遊びに来ていれば、ばったり鉢合わせする危険もある。だから会館内部の見学を諦めた。そして、そのことは口に出さなかった。
「もう、帰りましょうか」
 おれは、いま味わった胸の高鳴りを鎮めながら、ミナコさんを促した。
 駅の混雑は、さすがに退いていた。
 総武線のホームに立つと、あまりに閑散とした様子に驚かされた。先ほどの人混みは幻だったのかと、頬をつねりたくなるほどの変わりようだった。
 新宿で山手線に乗り換えた。池袋方面へ向かう電車のつり革につかまったまま、おれとミナコさんは互いに肩をぶつけ合った。
「うちへ、くる?」
 ミナコさんが、おれの耳元で囁くように言った。
 傍からみれば何でもない言葉だが、おれたちのあいだではタブーに近い意味を持っていた。
 おれは窓外に目を向けたまま、しばらく黙っていた。
「それとも、あなたのところへ行ってもいい?」
 ミナコさんの方が、おれよりよほど勇気があった。
 一瞬、おれは自分の三畳間を思い浮かべた。人を呼べる部屋だろうか、と躊躇する気持ちがあった。だが、おれは承諾した。
「ミナコさんなら、いいですよ・・」
 どんなに狭くても、散らかってはいない。
 あの日以来、少しずつ身奇麗になっていく自分を意識していた。
 大塚駅で降りて、中華料理店で本格的な食事をした。ミナコさんは、和菓子屋に立ち寄り、甘辛ニ種類の団子を買った。
 ゆっくりと歩いても、西巣鴨中学校に近いおれのアパートまで、十五分もあれば行けた。夜になって、気温が少し下がってきた。それでも首筋に当たる微風は、生暖かい。植物も動物も同じようなものだ。細胞がむずむずと動き出し、自然の摂理に従って花を咲かせ、行動を活発にする。
 花の美しさを愛でるのに理屈は要らないし、おれがミナコさんを愛するのも、何ら羞じるところはないはずだった。
 とはいえ、いつもは暗いと感じていた門灯が、この夜は明るすぎる気がした。
 おれは、おれの名前が入った下駄箱からスリッパを取り出し、ミナコさんに勧めた。そして、ミナコさんが脱いだ黒のローヒールをすばやく収納した。銭湯の下足箱よりは、ひとまわり大きい。おれの靴も重ねて押し込み、ふたを閉めた。
 上がり框に続く廊下は、いつもきれいに拭き掃除されている。おれは靴下のまま部屋の前まで行き、鍵を開けた。
 奈良の観光地で買った紺の暖簾が、扉の向こうに掛かっている。せめてもの目隠しになっていた。
 おれは先に入り、少しは整理がついた部屋を見回した。押入れの襖も閉まっている。ひとまずミナコさんを招じ入れても問題はなさそうだった。
「どうぞ。狭いところですけど、どうぞ」
 ミナコさんは、部屋に入るとまず本棚の前に進んだ。
 おれは、ドアを閉め、一畳半ほどに広がったスペースに座布団を置いた。
「夏目漱石とか、横光利一を読んでるのね。ああ、この本懐かしいなあ。わたし、堀辰雄の小説大好きだったの」
 目を輝かせて、おれを振り返った。
「ミナコさんも、文学が好きだったんですか」
「今でも、好きよ。・・と言っても、ミステリーが多いけれど。アガサクリスティーのものは、どれを読んでも面白いわ」
「へえ、すごいですね。ぼくも、いつか読んでみます」
 おれは、お湯を沸かす準備をして、部屋を出た。「すぐに戻りますから、待っててください」
 炊事場に急ぎながら、何もかもさらけ出して見せてしまおうと覚悟を決めた自分が、空の薬缶を提げて走る姿に、妙な可笑しさを感じていた。

   (続く)
 

(2006/03/13より再掲)

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