沸騰した薬缶の湯も、部屋に持ち帰リ急須に注ぐころには、ちょうど緑茶に適した温度になっているはずだ。おれは日常の経験をもとに、間合いを計る要領でゆっくりと部屋に戻った。
ミナコさんが後ろを振り返った。本箱に本を戻し、もう一度おれの手元に視線を向けた。
「あらあら、わたしが淹れましょうか」
「いえ、危ないからぼくがやります」
薬缶を小机の上に置き、金属製のトレイに伏せてある急須と湯飲みを据え直す。いま洗ってきた客用の茶碗も共に並べて、準備完了となる。
スーパーマーケットで買ってきた緑茶の袋から、直接茶葉を小出しする。薬缶からお湯を注ぎ、一呼吸置いて二つの湯飲み茶碗に注ぎ分ける。値の安い茎茶であっても、心をこめて淹れれば味も香りも引き出せると思った。
「このお茶の飲みごろは、一瞬ですから」
おれは、冗談を言いながら勧めた。
「うわっ、おいしい」
ミナコさんは、湯飲み茶碗を両手に挟んで、うまそうに飲んだ。夜はまだ暖房がほしい季節だから、温かいだけでもご馳走と感じたのだろう。
「ストーブは、使わないの?」
「石油は駄目なんです。契約のときに言われましたから」
「じゃあ、冬のあいだはどう過ごしたの・・」
「コタツが壊れてからは、寝るとき電気あんかを使ってます」
おれは、無意識に押入れの方を顎で示した。
なにかの折に、ベッドのことを話したのかもしれない。ミナコさんは、すぐに察して、興味を持った。
「ねえ、見てもいい?」
「ただの押入れですよ。万年床を見たって、面白くもないでしょう」
おれは、わざとあしらうように言い捨てた。
「わたしは、見たいの。あなたがどんな思いで夜を過ごしてきたのか、知りたいのよ。・・会社を辞めて、二ヶ月もの間、あなたどうしていたの?」
ミナコさんの真剣な目に出会って、おれはたしなめられる思いがした。マンダ書院にかかわった日々が、どこか不純に感じられる。ほんとうなら、日夜ミナコさんのことだけを考えて、七転八倒していなければいけなかったのだ。
「ごめん。ぼくの言い方は間違ってた」
おれは、今度こそ最後の最後までさらけ出してしまおうと思った。覚悟を決めていたはずなのに、ためらい傷を残す者の悲しさが胸に迫ってきた。
襖を開けると、60ワットの電球が放つ光が、押入れの内部に差し込んだ。
色あせたベニヤ板の壁と、敷きっぱなしの布団の上を、光の部分が滑っていく。それまで支配していた闇が退き、毎夜おれが身を横たえていた寝床の半分が明らかになっていた。
おれの横に、ミナコさんが立っていた。ミナコさんも、押入れが見せる光と闇の暗闘を見届けたのだろうか。
おれは、おれ一人では絶対に見ることのできなかった光景を目に焼き付け、ミナコさんの存在をかけがえのないものとして意識した。
おれの背中に、ミナコさんが顔を押し付けてきた。真後ろから、おれを掻き抱くように縋り付いてきた。おれは、しばらくそのままの姿勢でいた。足の位置を変えただけでも消えてしまうものが、おれの背中とミナコさんの間にありそうな気がして、怖かったのだ。
やっと離れる気配があり、その瞬間を捉えて、おれは体を反転させた。腋の下に手を入れ、ミナコさんを引き寄せた。今しがた、おれの背中が受け取ったものを、今度は胸で受け止めた。溢れてくるものが、おれの体に音をともなって流れ込んできた。
「ちょっと、目をつぶっていて・・」
おれは、ミナコさんの目蓋に口付けをした。初めて夜を過ごした時とは逆だった。ミナコさんは、おれの言うとおり目を閉じて襖に寄りかかっていた。
手早く着替えを済ませ、押入れの下段から踏み台を引き出した。ミナコさんのコートと上着を腕から外し、ハンガーに吊るす。おれが先に押入れに半身を入れて、ミナコさんを誘導した。踏み台に乗ったミナコさんを引き上げると、勢いあまって倒れたおれの上に、ミナコさんが倒れこんできた。
かくれんぼのときは、こんなだったかなと、おれはミナコさんの足を引き入れながら、鬼に気付かれないように息をひそめた日のことを懐かしんだ。神社の狛犬の陰に身を隠し、あとから飛び込んできた友達と体を寄せ合って台座の周りを回った記憶が甦ってきたのだ。
あのときの感覚と、さほど違いはなかった。
少しの緊張と、少しの可笑しさ。そして、それらをひっくるめたたくさんの興奮があった。わずかな死角を求めて移動した時のように、おれとミナコさんは体の落ち着く位置を探してごそごそと動いた。
動きが止んだとき、おれは襖をゆっくりと閉めた。
再び闇が力を取り戻し、おれの左腕を枕におれと向き合うミナコさんの顔を覆い隠した。真の闇ではない、天空から余光が差し込むような不思議な闇だった。飛鳥の王が、棺の中から見たかもしれない黄泉への道明かり。おれとミナコさんは、何をするでもなく、ただ抱き合ったまま恍惚の空間をさまよった。
<魂の寝室>・・唐突に浮かんだイメージだった。惨めさのともなうおれの寝床が、ミナコさんと共鳴することで全く別のものに生まれ変わっている。おれは、こみ上げてくる感情を押し殺して、ミナコさんの肩を強く抱き寄せた。
「こんな幸せって、こわいわ」
ミナコさんの呟きが、おれの頬にあたった。いっときの放心から浮上したようだ。おれは、襖をわずかに開け、光の中に生身のミナコさんを見出した。幼児のように無垢の表情が、目の前にあった。
怖いと思ったのは、おれも同様だった。
こんな甘美な時を過ごしていたら、いつかきっと向こう側へ引き込まれる。ほかの者には分かるまいが、ひとたび身を委ねてしまったら、ほんとうに戻って来られなくなるのだ。
おれがそう思っただけでなく、ミナコさんもそのことに気付いたに違いなかった。
(続く)
(2006/03/16より再掲)
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