(ノラの現住所)
朋子の家の近くに小さな公園がある。
片隅に地域の集会所があり、適度な間隔で配置されたハナミズキや百日紅、ムクゲの樹などが、折々の季節に花を咲かせた。
入口には、自転車乗り入れ、ボール遊び、ゴルフの素振りなどを禁じる注意書きが掲げられている。
看板には載っていないが、公園を囲むフェンスに「猫に餌をやらないでください」との木札が下げられていた。
朋子は早朝、人目を気遣いながら茶色の手提げ袋に餌を隠して運んでくる老人を見かけたことがある。
注意をしようにも、相手は男だし、どんな素性の人間か分からないので怖くてできなかった。
餌の心配がないせいか、近辺を徘徊する野良猫の数は多い。
朝の食事時間になると公園に集まり、そのほかは思い思いの場所で自由な時間を過ごしていた。
恋の季節には、深夜、民家のブロック塀の上や路上などで、露骨な求愛行動を繰り広げた。
メスをめぐって恋敵といがみ合うオスの声が、人間の眠りを破ることも少なくなかった。
恋敵といっても猫同士ほとんどが顔見知りだから、メールのやり取りだけで意気投合する人間よりは秩序がある。
朋子は、猫社会の方がノーマルで、わけの分からぬ人間の行動こそ嘆かわしいものだと考えていた。
春になって仔を産んだ野良猫は、公園を離れて飼い主さがしに勤しむことになる。
朋子がノラと名付けた牝猫は、あの手この手で朋子を篭絡しようと策を弄してきた。
まず試されたのは、勝手口につづく裏庭の植え込みの中で、牝猫が子育てを始めた時のことだ。
朋子が気づいて「あらっ」と声を出すと、横目で見上げながら子猫を舐めてみせた。
動物のオスは、往々にして生まれたての仔を襲うらしい。
自分のタネであろうが無かろうが、やがて敵になることを警戒して本能的に消し去ろうとするようだ。
メスはそれを警戒して、オスの目から子供を隠す。
ノラの場合も外出するときは、まだ目の見えない子猫を茂みに引き込んでから行動を起こした。
ところが、母猫が居合わせたときに人の気配がすると、子猫をくわえて植え込みから出してくる。
(どう、可愛いでしょう?)
お披露目して、できることならこの家に住み着き、餌をもらおうという魂胆なのだ。
朋子は子猫のあどけなさに心を動かされたが、一度でも餌をやったら付け込まれると思って我慢した。
ノラは、その後も植え込みにひそんで家人の注意を引こうとした。
なかなか誘いに応じないとみると、今度は自分の背中に子猫を乗せて、朋子の反応を窺うのである。
べたっと地面にはいつくばった母猫の背中で、白黒ぶちの子猫がぬくぬくと目を細めている。
飼ってやったら、どれほどしあわせだろうと朋子の心はぐらついた。
猫のためというより、自分の癒しのために傾き始めた心を、あわてて引き戻すのだった。
朋子は、中学以来の友人であるサツキから、折に触れて猫の可愛さを吹き込まれていた。
家に五匹の猫を飼っているサツキは、それぞれ性格のちがう猫たちに接することで、毎日充実した時間を楽しんでいるという。
「亭主と猫とどっちを選ぶかといわれたら、わたし猫の方を取るわ」
離婚こそしていないが、タイの合弁会社に単身赴任して三年になる夫は、現地妻をつくってシャーシャーとしているらしい。
サツキに対する無関心さは、不満や愚痴の少なさからも逆算できる。
相手がそうなら、こっちだって好き勝手をしてやる!
その結果が、猫を相手の浮気なのだ。
サツキは「夫との間に波風を立てるつもりはないの」と朋子に言った。
毎月一定額の給料を振り込んでくる間は、夫というよりほとんど取引相手のような感覚だった。
<仮面夫婦>・・・・世間では、表面だけ取り繕っている夫婦をそのように呼ぶらしい。
サツキにとって、子供のいないことが善かったのか悪かったのか。
欺き欺かれるといった感覚ではなく、そうかといって許すのでもなく、ただ騒ぎ立てるのが面倒だったのだ。
寂しさを紛らす代償行為とみられるのが癪だったが、最近ますます猫に関わる時間が多くなっていた。
野良猫救済活動のボランティア代表に担ぎ出されて、里親探しに奔走しているのだ。
「朋子さん、あなたのご希望の白猫が見つかったわよ」
どうせ飼うなら白い猫がいい、といった言葉をサツキは忘れていなかった。
朋子とすれば、話の流れから調子を合わせただけで、本気で飼おうと思っていたわけではない。
というより、飼いたい気持ちに嘘はないのだが、現実の問題となると障害が多すぎるのだ。
第一に、サツキとちがって経済的余裕がない。予防接種や避妊手術にかなりの費用が掛かって、家計を圧迫する虞がある。
第二に、子猫が持ち込む病気や蚤が怖い。母猫まで転がり込んできたら、潔癖症の朋子はパニックを起こしそうだ。
さらには、ノラが遊び相手のオス猫を連れてきたらどうしよう?
アレルギー性鼻炎の亭主は、部屋に舞う抜け毛にくしゃみ連発となるかもしれない。
あれこれ考え合わせると、朋子が猫を飼える可能性はほとんどなかったのである。
ノラと顔合わせをするのが辛くなった朋子は、近くのホームセンターで猫の忌避材を買ってきた。
缶詰風の蓋をパカッと開けて、ノラが出かけている間に植え込みの根元に置いた。
人間には我慢できない臭いではないが、猫にとっては耐えられない悪臭らしい。
案の定、戻ってきたノラは子猫を連れてどこかへ姿を消した。
(やれやれ・・・・)
朋子の胸中は複雑だった。
いたいけな子猫に酷い仕打ちをした罪の意識が、くすぶっている。
時間を置かずに戻って子猫を連れ去ったノラに、救われた思いがした。
ところが、親子の移動先はすぐに判明した。
何のことはない、最初の植え込みとは反対側の、隣りとの境界フェンス近くにいたのだ。
そこには赤白二種の南天が繁茂していて、朋子の側からは死角になっている。
あくまでも朋子の家に住み着くつもりらしいと感じた瞬間、鳥肌立った。
ノラに対する憎しみが湧いた。
とたんに、隣家の飼い犬が吠えた。
躾のなされないまま成長した柴犬のアンだ。
アンは三年ほど前から飼われていて、女でいえば二十歳過ぎのわがまま娘といったところか。
主人の可愛がりようは大変なもので、餌やり、散歩を含め、あらゆる世話を一手に引き受けていた。
そのアンが、ノラを見つけて激しく吠え立てた。
金網越しではあるが、ノラも毛を逆立てて犬を威嚇した。
隣家の主人が飛び出してきて、アンに歯向かう野良猫を見たから収まらない。
「このォー」
朋子が不在と思ったのか、いきなりノラに向かって放水を始めた。「・・・・ドロボー猫が!」
たしかに隣家のコンクリート床には、ドッグフードが転がっている。その一部を野良猫がくすねたと思ったのだろう。
(わが娘に害をなし、そのうえ脅しつけるとは・・・・)
物陰から男の逆上した顔を見ているうち、ノラへの憎しみがいっぺんに退き、同情すら覚えた。
(なにも他人の家に向かって、放水することないんじゃない?)
子猫まで水浸しにされたかと思うと、ダブルの不当さに怒りを感じた。
居場所を失って、ノラ親子はどこかへ消えた。
憐れさに、胸が締めつけられた。
いまごろ、どこでどうしているのやら?
サツキに顔向けのできない行為をしてしまった・・・・。
朋子は、外出するたびにノラの姿を目で捜した。
動きもままならない仔を残して、餌をさがしているのではないか。
公園の茂みも覗いてみたが、ノラの気配はどこにもなかった。
(ごめんね・・・・)
ただただ謝るだけだ。
万が一ノラ親子をみつけたら、飼い猫にしてやれるかと考えると、やはり無理だった。
気の重い日々が過ぎていった。
親子を発見したのは、一週間ほどたった日曜日のことだった。
運送の仕事が休みになった亭主とクルマで通りかかったとき、生垣の下からピョンコピョンコ跳ね出た子猫と遭遇したのだ。
「あっ」朋子は思わず声をあげた。
「どうした?」
事故でもやったかと驚いた亭主が、急ブレーキを踏んだ。
二人の家から一ブロック離れた信号機のない交差点で、気づかないうちに何かを轢いたかと思ったのだろう。
「ごめん、そうじゃないの」
朋子は、気にしていたブチの子猫を見かけたので、思わず声を発したのだと説明した。
跳ねるように飛び出てきた猫の姿は、亭主も見ているはずだ。
停まっているクルマに安心したのか、子猫につづいてノラも姿を見せた。
(ああ、よかった)
とにかく、ねぐらと餌は確保しているらしい。
目も開いて元気に飛び跳ねる子猫と、陽を浴びて毛艶も良さそうなノラの様子に、朋子はほうっと息を吐いた。
あの家では、最近犬が死んだはずだ。
ゴールデン・リトリバーの老犬を失った飼い主の心の隙に、ノラ親子が入り込んだことを信じたかった。
まだ確定したかどうかは分からないが、生垣のこの家がノラの現住所らしい。
茶色のチョッキを愛用するご主人に可愛がられて、ブチの子猫が無事に育つことを心底願った。
(おわり)
朋子はもちろん、登場する人物たちと野良猫親子の心理や内情が細やかに描き出されているからです。
一行一行、神経の行き届いた文章ですね。
しかも、登場人物が小市民的であり、また、特段変わり映えしない猫ですから、かえって輝きを増すようです。
そして、大した波乱万丈もなく、音楽で言えば、メヌエットのような心地いい終わり方をする。力みがないだけ、癒されるようです。
『六本木ジャズ物語』のご著書もある方から、メヌエットといわれると照れますが、大変うれしくおもいました。
次回以降またギラギラしたものを書くつもりですので、よろしくお願いします。
誰の庇護もなく独りで生き、独りで子を産み育て、その子を不条理に失い、でも誰にも同情されず黙々と生きていくその姿には、思わず「頑張れよ」と祈るような気持ちにさせられます。
むかし北海道の開拓詩人である更科源蔵は自らの辛い開拓生活を描いた著書『北海道の荒野に敗れるまで・熊牛原野』に、開墾地で出会った一匹の野良猫についての思いを綴った「野良猫」という一編を発表しています。
ゴミ捨て場で食いものをあさったり鼠を捕ったりして生きている牝の野良猫が、あるとき恋をして馬小屋の藁の中で5匹の子猫を産みますが、子猫は馬小屋の馬に蹴られたり犬にかみ殺されたりして生き残るのは一匹だけになります。
やがて母猫も人間が害獣退治のために仕掛けた口発破に頭を吹き飛ばされ、子猫は独りで生きていかざるを得なくなります。
子猫は数々の危険に遭遇しながらも人間に関わるあらゆるものを信用しなかったことから辛うじて生き抜いているらしく、ときどき荒野を駆け抜ける姿を見かけます。
更科さんは過酷な開拓生活の中で妻を肺炎で失い、失意のまま開拓地を捨てて嫌っていた都会に出て行くのですが、都会生活の中であの野良猫の駆ける姿をふと思い出すのです。
「私はこれまで二度小説を書きたいと思ったことがある」と、その野良猫という文章は書き起こされるのです。
「一度はコタン(アイヌ集落)の青年の怒りと悲しみについてであり、もう一度は開墾地をうろついていたあの野良猫のことだった」がついにどちらも作品に纏めることが出来ずそのままになっているという。
しかし「どっちも時々私の中に、ひょっこり眼を覚ましたように現れては、何かはげしく私を燃え上がらしたり、叱咤したりするのだった」
そのあとその野良猫母子のことが詳しく語られるのです。
40年近く前に読んだその「野良猫」という作品を、何かの折にふと思い出すたびに私は今でも胸が熱くなります。
今回窪庭さんのこの素晴らしい短編を読んで、久し振りに更科さんのその作品を思い返しました。
有難うございます。
原野の詩人とも呼ばれる更科源蔵に、このような作品があるとは知りませんでした。
未完のまま亡くなったようですが、むしろ小説として纏まらなかった経緯に、詩人の真実を感じました。
<ときどき荒野を駆け抜ける>という野良猫の幻影が、時を超えて見える気がします。
知恵熱おやじ様のアイデンティティーも、そくそくと伝わってまいりました。