(雑踏の死角)
新宿で怖いのは、歌舞伎町だけと思っていた。
多賀子は新宿伊勢丹の南側道路を歩いていて、不審な男と女子高校生らしい少女の二人連れとすれ違い、妙な怖さに襲われた。
(この人たち、どんな関係なんだろう?)
男に肩を押えられて通り過ぎる少女の顔を、ちらりと盗み見た。
近頃は、大人に際どい行為をさせたり、平気で売春したりする女子高生もいるという。
これから御苑近くのホテルにでも向かうのかと、嫌な思いで見送った。
それにしても、時刻は午後二時である。
多賀子の方は、デパート内の食堂で天ぷらそばを食べ、秋もののコートを買って駅に向かっていた。
久しぶりに映画でもと心が揺れたが、娘と一緒のときならともかく一人では億劫さが先に立った。
そのくせ、素直に電車に乗る気持ちになれない。
もう一箇所どこかに立寄りたい、そんな未練がくすぶっていたときだった。
(あの子、不良にしては浮かない顔をしていなかった?)
自分自身に問いかけてみた。
制服のミニスカートから太ももを出している少女が多い中、すれ違った少女はどこか様子が違っていた。
不敵な表情はかけらも見えず、惨めに引き立てられていくような印象があった。
「変だわ・・・・」声に出して呟いた。
主婦の勘というのか、しばらく様子を窺う気になった。
多賀子に行く当てがあったなら、余計なお節介をする気持ちにならなかったろう。
しかし、このときは気持ちがうだうだしていて、時間を費やす機会を探していたようなものだった。
五秒ほど過ぎたところで、多賀子は振り返った。
人が行き交う中、道の真ん中で一瞬歩みを遅くした少女を、男が引きずるような動きがあった。
後ろから見ると、餌の足りない若鶏が逃げ切れずに野良犬に咥えられていくような印象だった。
(おかしい!)
多賀子は足早に追いかけながら、迫り来る恐怖と闘っていた。
どのように異常事態を確認するか、周囲に異変をどう伝えるか、反撃されたらどうするか、纏まらないまま二人の背後に近づいていた。
「マサミちゃん! マサミちゃんじゃないの?」
とっさに口をついて出た呼びかけだった。
名前は、最近一人娘のもとに遊びに来た同級生のものだった。
「あんた、こんなところで何してるの?」
知らず知らずのうちに、自分が躊躇なく入っていけるシチュエーションを作り出していた。
少女の肩がびくっと震え、次にゆがんだ顔が多賀子に向けられた。
「お母さん待ってるわよ。帰りましょ・・・・」
少女は我にかえったように男の手を外し、走って多賀子の背後に隠れた。
恐怖の呪縛がとれて、ううっとうめき声がもれた。
「なんだよ、このヤロウ!」
男の顔が迫ってきた。
無節操な生活で膨らむだけ膨らんだ、海坊主といった形相だった。
顔だけでなく、手も伸びてきた。
肩を突かれた瞬間、多賀子は大声を発した。
「おまわりさん、おまわりさーん!」
少女を庇って後退りしながら、軒を連ねる商店の一つに飛び込んだ。
「お願いします、110番してください!」
通報があって、まもなく自転車に乗った二人の警官が駆けつけてきた。
「どうしました?」
男はすでに逃走したらしく、姿を消していた。
それでも警戒しながら、多賀子は警官の一人に事情を説明した。
男の人相をいうと、「プータローだな?」との答えが返ってきた。
その頃には、応援の警官も集まってきて、多賀子が述べた人相風体を頼りに捜索を始めたようだ。
トランシーバーで連絡を取り合いながら、「プータロー、プータロー」と叫んでいる。
正確な意味は分からないが、多賀子にもプータローというものの想像ができそうに思った。
多賀子の中では、太って顔色が悪く、年中ろくでもないことを考えている怠け者がプータローだった。
あるいは警察には既知の人物で、あだ名で特定しているのかもしれなかった。
しばらく探し回ったが、逸早く新宿の穴倉に潜ってしまったらしく、捜索の甲斐もなく男を発見できなかった。
多賀子と少女は、近くの交番へ同道を求められた。
あらためて目の前で起こった出来事の説明をし、警官が目撃調書に記入するのを見守った。
隣りでは泣きじゃくっていた少女が保護者の名前や住所を訊かれ、聞き出した警官が電話で連絡を取っていた。
少女の名は、明菜というらしかった。
ちょっと古くさいが、聖子や明菜と同時代の女性が、母親になって我が子に付けた名前と思えば納得がいった。
少女の母親にはすぐに連絡がついたが、埼玉県の深谷市から駆けつけるというので、かなり時間がかかりそうだった。
「おばさん先に帰るけど、大丈夫よね?」
声をかけると、やっと頷けるほどに落ち着いてきた。
なぜ男に付いて行ったのか警官に訊かれて、少女は「こわくて逃げ出せなかった・・・・」と答えた。
多賀子は男に突き飛ばされた瞬間を振り返り、少女が声も出せないでいたのを無理もないと思った。
人が行き交う雑踏で、少しぐらい変に見えても誰も注意を払わない。
理由はいくつも考えられるが、他人への無関心と、自分を危機に曝したくない防御本能が働くのだ。
「奥さん、よく見破りましたねえ」
最初に駆けつけた警官のひと言は、多賀子の恐怖を償って余りあった。
(あたしって、勇気あるじゃない?)
阿佐ヶ谷の自宅に戻る電車の中で、多賀子は心地よい達成感を味わっていた。
多賀子がもし声をかけなかったら、明菜という少女は男たちの巣窟に連れ込まれ、転落の人生を歩まされたに決まっていた。
おそらく一日に何人もの客をとらされ、自暴自棄になって破滅していく。
恐ろしいことだが、新宿の路上では毎日そうした狩りが行なわれているのだ。
多賀子が事件の経緯を述べ、少女が被害届を出すことによって、プータローは検挙されるかもしれない。
たった一つの犯罪とはいえ、多賀子によって未然に防がれたことは大きな成果だった。
この事がきっかけで、悪い男たちはしばらく自粛するかもしれない。
帰宅して夕飯の支度をしながら、この日の出来事を夫にどのように報告しようかと思い悩んでいた。
突き飛ばされたことを言えば、夫を心配させることになる。
多賀子自身の被害届も出しますかと問われて躊躇したのは、深く事件にかかわることで家族まで巻き込みたくなかったからだ。
「変な二人連れがいたから、わたし110番してやったのよ・・・・」
夫には、その程度の報告にとどめておこう。
先ほどまでの浮き浮きした気持ちは後退していたが、よいことをした満足感はそのまま残っていた。
夜八時ごろ、多賀子の家に電話がかかってきた。
交番まで娘を引き取りに来た母親からのものだった。
意表を衝かれたが、調書に自宅の連絡先を書いておいたのだから、警官がお礼の電話をするよう勧めたのかもしれないと思った。
「ありがとうございました。娘は、助けていただかなかったらどうなったことかと奥様に感謝しております」
そうか、常識のある母親だなと多賀子は感心した。
「お嬢さん、そこにいらっしゃるのですか」
「はい、いま換わりますので・・・・」
単に元気でいることを確かめたかっただけなのに、母親はあわてて少女に電話器を渡したようだ。
「もしもし、さっきはありがとうございました。わたし、騙されてついて行くところでした。おまわりさんから、それが手口なんだと叱られました」
どういうことなのだろう、何があったんだろうと多賀子がいぶかしむ間に、再び母親の声がした。
「ぼんやりした子でしてね。・・・・穿いてた下着を高く買うからといわれて、店まで付いていこうとしたんだそうです」
他の子はもっと要領よくやっているのに、馬鹿な娘ですみませんでしたと謝ってみせた。
多賀子は頭から血がすうっと引くのを覚えた。
感謝され、謝罪されているのに、なにかそぐわないものを感じていた。
明確にこれだと指摘できない齟齬が、電話の向こうとこちら側の間に横たわっていた。
「わざわざ、どうも・・・・」
多賀子は、力なく受話器を置いた。それ以上、会話を続ける意欲を失っていた。
翌日、午後になって宅配便が届いた。
明菜からの短い手紙を添えた菓子折りだった。
(この子は、まともかもしれない・・・・)
文面を読みながら、多賀子はそう思った。
幾十、幾百の目がありながら、多賀子以外に助けてもらえなかった恐怖を伝えてよこした。
雑踏の死角、都会の陥穽、恐怖に竦んでしまった自分の心の無力さにも気づいていた。
それに引き換え、自分の娘を要領がわるいと言い募る母親のことは、どう考えたらいいのだろう。
これからは、警官のいうとおり身を挺して立ち向かう危険は冒すまいと思った。
遠くから見ながら通報してくれれば、あとはわれわれが引き受けるという言葉を信じて・・・・。
(おわり)
しかも、登場人物それぞれを緻密に浮かび上がらせており、隣場感に惹き込まれました。
空想のうえで、あるいは机上論で、このような小説を書き終えるというのは、至難の業じゃないでしょうか?
具体的なヒントを何かで得たとしか考えられません。ご自身の身辺をネタにしたわけじゃないでしょうが。
とすると、《雑踏の死角》という題目だけ挙げ、さまざまに想像力を駆使し、話を創作するのも面白いのでは、なんぞと愚考します。
ともかくも、まとまりの良い一篇ですね。
同じ時代に生きていながら直接触れることのめったにない現代若者風俗の尖った先端に、思いがけなく触ってしまった大人の女性の戸惑い。
その感覚がとても上手く表現されていて、そうだよなー、と主人公の気分に同調しながら愉しませていただきました。
程よい軽みと大人の女の思慮を感じさせる文章が、この中年女性の人柄を過不足なく伝えてきて「名人芸だなあー」と脱帽。
読後感もとても気持ちよい。
文章を読む愉しみとはこういうことを言うのでしょうね。
次のお作はどんな趣向でこられるのか、楽しみに待っています。
(丑の戯言)様、コメントありがとうございます。
いつの世も事件に満ち溢れているものよ、と呆れるばかりです。
たまに猟奇事件らしきものがあり、びっくりさせられますが、われらはそれにも馴れてしだいに麻痺していきます。
その点、些細なことにもピコピコ反応する主婦(誰でもとはいえないが)の感性に興味を持ちました。
靴の先から頭のてっぺんまで、一目で記憶するのは女性の特技。
指名手配犯は、ゆめゆめ油断できませんぞ!
(知恵熱おやじ)様、ご高評ありがとうございます。
感性の齟齬も、もう一つの死角(キザ?)といえるかもしれません。
人はいつも、こうした微妙なずれを感じつつ日を送っているのでしょうね。