(発砲危険)
ニューヨークでの生活に疲れた星野洋子は、三年ぶりに成田空港に降り立った。
かれこれ十年になろうかというアメリカ暮らしの中で、三度目の帰国であった。
ブロンクスで貧乏絵描きと同棲しながら、自身もまたポップアートを制作して企業やメディアに売り込みを図ってきた。
洋子の絵は、日本人の感覚ではなかなか受け入れられない作品だ。
原色の鬩ぎ合いの果てに、一瞬生じるブラックホールのような妖かしの画法なのだ。
チェルシーの画廊で展示した際には、目の錯覚を利用したアクロバティックな作品と一定の評価も得た。
トリックアートと違って、より抽象性の強い洋子の作品モチーフは、アメリカという風土に迎合したものだった。
二流の化粧品会社ではあったが、洋子の絵にファンデーションの瓶をあしらう広告の仕事を請け負ったこともあった。
同棲相手の絵描きは中米からの移民で、洋子の絵にたいする取り組み姿勢を間違っていると非難した。
「分かっているわ、商業主義的だというんでしょ?」
開き直って相手の宗教的モチーフを基とした作風を揶揄した。
「・・・・コーヒーとバナナだけで生きていけるんなら、何の問題もないけどね」
作品だけでなく、自国コスタリカまで馬鹿にされたと思った相手は、突然怒り出した。
洋子はカネ儲けのために媚を売るベニコンゴウインコだと、スペイン語でまくし立てた。
言い争いが高じて、殴られることもあった。
ギクシャクした関係が半年ほど続き、最後は経済的に優位に立つ洋子が共同生活の終焉を申し渡した。
精神的に不安定になった洋子が東京の実家に戻ったのは、二十歳まで気ままに暮らした場所への郷愁だったかもしれない。
だが、三度の短い帰省を除いて十年間留守をしている間に、父母は老い、天下を取った妹が家族を支配していた。
妹に対しうっかり命令口調で意見を言おうものなら、天敵に向かう猫のように毛を逆立てた。
「勝手なことをやっていて、なにを今さら戻ってきたのよ!」
どの面さげて帰国したのかと詰っているわけだった。
「あんた、あたしが戻るのがそんなに怖いの?」
(財産を独り占めしようったってそうはいかないわよ。・・・・遺留分はちゃんと要求するからね)
口には出さないが、可愛げのない妹に鼻先で宣戦布告した。
しかし、このままでは何とも居心地が悪い。せっかく静養のために帰国したのに、ニューヨークにいたときよりストレスが溜まる。
「そうだ、お母さん、あたし温泉に入りに来たの。いっしょに四万温泉へ行かない?」
バスの終点から少し奥まったところに、一家の別荘がある。毎日立ち寄り湯に行けば、心身の疲れも取れそうだった。
母を誘って、家族内の立場を少し修復して置こうとの思惑もあった。
「あたしだって行きたいけど、お父さんを放っておくわけにはいかないから・・・・」
都合が悪いと父を引き合いに出す癖は、昔から変わっていない。
口うるさい妹の顔色を窺っているのは明らかだった。
「いいわ、それじゃ一人で行く。・・・・四、五日借りるけどいいわね?」
そういう経緯で出かけてきた別荘だった。
電車を乗り継いで、洋子は吾妻線の中之条駅に降り立った。
夏休みの真っ盛りとあって、先生に引率された中学生の姿が目に付いた。
野反湖キャンプ場をめざして、この先の長野原草津口駅まで行くらしい。
中之条で下車したまばらな客は夫婦連れが多く、おおむね洋子と同じ沢渡・四万方面行きのバスに乗り込んだ。
バスが四万温泉に着くと、そこからタクシーで暮坂峠方向へ少し登る。
軽井沢とか草津といった有名リゾート地ではないが、緑滴る森に埋もれた別荘地があちこちに点在していた。
森と住宅地の境界が曖昧だということは、野生の動物と人間の棲み分けも完全にはできていないことを意味していた。
事実、夜になると軒下を徘徊する野生の気配がした。
セントラルパークでは俊敏なリスが目に付いた。芝生に憩う人間を怖れることなく、わがもの顔に走り回っていた。
別荘の夜を脅かす動物はテンかイタチか、すばやさの中にも地に足の付いた慎重さが窺われた。
タヌキやキツネも生息しているはずだが、まさかそこまで大きな図体が出没しているとは思えなかった。
最初の夜が明けると、勝気な星野洋子もさすがに夜通し緊張していた自分を見出した。
とはいえ、いったん覚悟ができると、好奇心を抑えきれなくなるのが洋子の習い性である。
用意してきたパンと紅茶の朝食を済ますと、別荘からつづく人気の少ない山道をたどって散歩に出た。
ソーホーのスポーツ専門店で買ったNYヤンキースのロゴ入りTシャツと、年代物のジーンズといういでたちだった。
Tシャツと同じ色の紺の野球帽を被り、長めの髪はポニーテールにまとめていた。
洋子の住む地区は、土地柄でヤンキース・ファンが多く、いつの間にかその影響を受けていた。
交流のある日本人は松井秀喜のグッズを買い込んでいたが、同棲相手の絵描きはA・ロッド一辺倒だった。
星野洋子は、持ち前の反抗心からデレク・ジーターのファンになった。だから、Tシャツには当然2の背番号が入っている。
有名女優やモデルとの噂が絶えないからと、同棲相手はジーターを毛嫌いした。
だから、相手の鼻面を引き回すように、わざとジーターへの熱狂振りを見せ付けた。
あとになってみれば、A・ロッドのスキャンダルも発覚して、相手がジーターを笑う資格などなくなった。
洋子は、ほら見たことかと快哉を叫んだ。
森というものが、単に樹木がたくさん生えている場所ではないことを、洋子は歩きながら実感した。
人間が汚した空気や水を還流させ、本来の活力を再生する大きな清浄機であることに気がついた。
鬱蒼とした山道を散歩するうちに、日本はやはり神々の住む場所なのかもしれないと思った。
人工的な秩序や価値観にあこがれてアメリカを目指した洋子が、突然そんな気持ちを抱いたのが不思議だった。
メトロポリタン美術館に通いつめ、セントラルパークに憩った日々は確かに充実していた。
だが、いま味わう方向感覚の麻痺に似た心細さは、挑戦的に生きてきた洋子を立ち止まらせるものだった。
三ヶ月前まで、芸術にも、ライバルにも、同棲相手にも、むき出しの闘志で立ち向かっていた。
気力が萎えたら、ニューヨークには一日たりとも居られないと思っていた。
だから、無理やり強気に立ち向かおうとしていたところがある。
登りかけの道が、切通しを過ぎて急に下り坂になった。
大きくカーブを描く山道を下りきり、下草に覆われた沢を越そうとしていた。
風化したコンクリートの橋を過ぎると、いよいよ森の様相が濃くなった。
『発砲危険』
目の前の杉の木に巻きつけられた赤い看板が目に入った。
藪に遮られていた視界が一瞬展けたところに、いきなり突きつけられた感じだった。
(どういう意味?)
警告であることは理解できたが、発砲される虞があるから用心しろというのか、発砲する側への注意喚起なのか分からなかった。
洋子には、いまの季節が狩猟解禁期間なのかどうかさえ分からない。
昨夜の体験から、狩猟を生業とする人がいても当然との思いがあったが、人家から遠くない散歩道の途上で脅かされるとは思わなかった。
こんな注意書きがあるということは、この辺りが鳥獣保護区ではないということだ。
(おお、こわい)
治安が悪いといわれるハーレムで撃たれるならともかく、静養のために戻った日本で獣に間違えられるのは願い下げである。
洋子は怯えたように向きを変え、いま来た道をそそくさと引き返した。
急ぐ足先が、何かに躓いた。
石か木の根か確かめるのを忘れるほど、頭の中が白くなっていた。
発砲危険!
体言止めの範囲を問われて狼狽した高校時代の授業のひとコマが、羞恥とともに浮かんできた。
ニューヨークで、自分は発砲する側だったろうか。
偶発的なアイデアを振り回して、世間を欺こうとしていなかったか。
同棲相手の言葉尻を掴まえて、何倍もの報復を仕掛けなかったろうか。
癒しを求めて一時帰国したのに、自分を非難する妹を許せず、心の中で発砲していなかったか。
自分は発砲される立場だと思い込んでいたのに、森の中で別の位置にいる自分に気づかされた。
三日後、別荘滞在を早めに切り上げた洋子は、母と妹に土産を買って実家に戻った。
「わたし一人、我がままをさせてもらってごめんね」
名産の花豆をふんだんに使った和菓子は、家族に好評だった。
妹は、こんなものではごまかされないわよと疑わしそうな目をしていたが、姉の心境の変化に気づいていたかもしれない。
星野洋子は、コンチネンタル航空で予定通り日本を離れた。
今度戻ってくるのはいつだろうか。
それとも、アメリカのリッチな男を捕まえて結婚しちゃおうか。
ファニーフェイスが武器の洋子なら、その気になりさえすれば決して難しいことではない。
洋子自身がいうのではなく、画廊のイタリア系女主人がそう見立てたのだ。
そうなれば、発砲するもされるもまったく関係なくなる。
日々の心の動きに悩まされる生活とは、おさらばだ。
「あんた、来年のゴールデンウィークにでも、わたしの所へ来てみない? 新しくなったヤンキースタジアムとか案内するわよ」
読売ジャイアンツのファンである妹なら、きっと乗り気になるに違いない。
出立間際に言った言葉が、自分の背中を後押ししそうな気がした。
(おわり)
内容の色濃い充実した一編ですね。ヒトや自然への深みも感じられました。
さらにはまるでニューヨークという大都市に通暁されているような箇所が散見され、その正確さに「よくぞ調べたもの」と感嘆も。
星野洋子と同棲相手の中米人の心理の揺れや流れも、いかにもといった感じで描き出されています。そう感じさせるに充分という意味で。
しかし、おしまいには洋子を中心にした人間愛に触れているところは、読後感をプラスに持っていってくれましたよ。
短編とはいえ、凝縮された佳作ですね。
読ませてもらい感謝します。
そうしなければ安全に生きていけないと信じ込んでしまったのは、いつからだったろうか。
アメリカでは「自分の身を守るため」として銃を所持する自由が保障されていて・・・。
誰もが自分は発砲される側と思いながら。
その銃によって毎日のように、人が殺されていく。
発砲される側と思っていた人が、発砲しているのだ。
それでも銃の規制は否決され続けて。
そして「心の発砲」はあまりにもはっきりしすぎる自我によって起こるらしいが。
自我の毒が自分の体に回って、発砲する側なのか、発砲される側なのか分からなくなるようだ。
自我など関係なく枝葉を広げ酸素を吐き出し実をつけ、生きとし生けるものを養う自然のありがたさに、ただ頭を垂れるばかり。
ニューヨークのことなど何も知らないのに、こんな小説を書いてハラハラしていました。
ありがとうございました。
いろいろな場面で実感するのは、他者に対する労りの欠如です。
知恵熱おやじさんのおっしゃる自我の毒が、国も人も混迷に陥れているのでしょう。