どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の連載小説『吉村くんの出来事』(13)

2024-01-12 02:51:00 | 連載小説

     瓢箪から駒

 秋の将棋大会で保険課の蜂谷を破ったことが、吉村の予想もしない評判を呼んでいた。
 同じ屋根の下に居ながら、自分の所属する課以外の職員に妙な対抗意識を持っている者が少なくないことを、つくづく感じさせられる顛末でもあった。
「あいつ今年も優勝できると思ってそっくり返っていたけど、おまえに負けてへこんでたぞ」
 吉村を讃えるというより、蜂谷をくさすことに熱中しているのだ。
 蜂谷が背を反らすのは、単なる癖かもしれないし、もしかしたら腰が悪いための姿勢ではないかと考えられる。どちらにしても人を見下すような仕種には見えないと、吉村は仲間の言に戸惑いを覚えていた。
 そして、一部の人間とはいえ集配課に漂う卑屈な空気を、あらためて思い知らされるのだった。
「将棋が強いからって威張る人は、あんまり居ないっスよ。大体勝負なんて、どっちへ転ぶか分からないんスから・・・・」
 蜂谷がいう<指運>は、まさに人知を超えた紙一重の明暗を示唆する言葉であった。だが、その言い回しには相応しい場面が必要だ。
 知能の限界にまで達したプロ同士の激闘ならともかく、素人の勝負において指運などとはおこがましくて口にできない。とても恥ずかしくて・・・・と思う気持ちが吉村にはあった。
 その意味では、蜂谷にも突っ込まれるべき迂闊さがあるのかと、ちょっと気取った駒の扱い方とともに否定的な感情が湧く。吉村は微妙なこころの動きに従って、目の前の相手に同調する表情も見せた。
 昼休みの将棋熱が再び高まって、しばらくご無沙汰していた同僚からもたびたび誘いがかけられた。
 その一人、いかつい顔をした同じ班の先輩は、吉村にとって鬼門の相手だった。何度負けても、「もう一丁」と繰り返す将棋中毒の男で、進歩のなさに呆れるだけでなく、昼休みの時間いっぱい付き合わされることに辟易としていた。
 とはいえ、吉村が避ける決定的な理由は別のところにあった。
 数年前の梅雨時、バイク事故を起こした遠因として、吉村はこの男との将棋に間に合わせようと焦った嫌な記憶を引きずっていたのだ。
 責任を転嫁するようで心苦しく、なるべく思い出さないようにしていたのだが、何度も誘われると嫌悪の感情が湧きあがってくる。
「すみません、いま資格試験の勉強をしているので、将棋指してられないんスよ」
 丁重にお断りした。
 しかし、そうなると他の同僚とも将棋を指すわけにはいかなくなった。嫌いではないから辛かったが、言った手前やむなく資格を取ることに意欲を向けた。
 書店を探していてハタと気が付いたのは、調理師の免許が役に立ちそうだということだった。
 久美の祖母が亡くなって以来、季節料理の店<ふくべ>は久美一人を手伝いとして切り盛りしている。
 久美の父の負担は前にも増していて、早朝から築地での仕入れ、仕込み、一眠りしてからの開店準備、客を迎えての調理と、息つく暇もない日々を送っているのである。
 こうしたなか吉村は、結婚しても久美に<ふくべ>を手伝わせるつもりでいるが、子供でもできればそう都合よくはいかないだろうとおもっている。途端に困難に直面することが目に見えていた。
 調理師試験を受ける条件は、さほど難しくはなさそうだった。一定の学歴と、飲食店における二年間の調理経験があればよいことになっている。
 だが、よくよく考えてみると、ずぶの素人には二年という歳月が厄介な障壁となっている。どれほど勉強したところで、お店での体験期間を短縮することはできないからだ。
 吉村は、久美の育児といった状況が出現する前から準備する必要を感じて、にわかに真剣になっていた。
 将棋の対戦を断るためについた嘘が、いまや嘘から出た真になっている。こうなれば絶対に調理師免許を獲得しなければならないと、どこかで実績を作る方策に思いをめぐらしていた。
 調べてみると、調理師を育成する学校もないではなかった。夜間部に二年通って学科と実技を習得する専門コースもある。
 名の知れた料理人が創設した学校法人が多く、いずれのコースを選んでも社会へ出てからの活躍が謳われていた。
 しかし吉村は、高額な授業料が必要なことを知って学校は断念した。
 <ふくべ>で経験を積むことはできないか、吉村はその可能性を考えた。
 久美に話をしてみると、父親に相談をしてみるからと複雑な表情をした。
「迷惑だよねえ・・・・」
「そうじゃないの。洋三さんがそこまで考えてくれてるのかと思うと嬉しいけれど、お仕事しながらの修業なんて負担がかかりすぎるわ」
「まあ、すぐにというわけじゃないんで・・・・。なんせ学校だと授業料が百万円もかかるらしいっスよ」
 たしかに高額だが、実技で使う材料費を考慮すれば、それくらいかかるのは仕方のないことだと久美に指摘された。
「それもそうっスね」
「無理をしないでね・・・・」
 久美との話は、そこで打ち切られた。

 昭和通りと地下鉄日比谷線が上下で交差する駅で電車を降りる。長い階段を登って地上に出ると、見上げる空の色が心なしか澄んでいるようにおもわれた。
 直方体のビルに囲まれた青い空間が、都心の職場で流れた時間の嵩を吉村に意識させた。
 地階のロッカールームで制服に着替え、エレベーターで集配課事務室に向かう。集配課だけでも五つもある大所帯だが、職員はそれぞれ自分の所属する課長席に備えられた出勤簿に押印する仕組みになっていた。
 職員にとっては、民間会社のようなタイムレコーダーのほうがよほど気楽なはずで、三ヶ月に一回募集する提案にも要望が出されたことがあったが、官側の意図は別のところにあったから、出勤時の習慣が変わることはなかった。
 たしかに旧式なやりかたではあったが、課長の目前でハンコを押させることでまずは遅刻防止が図られていた。
 また、課長は職員の顔色や声の調子から健康状態を把握しなければならないし、私生活の乱れも推理する心理カウンセラーの役目も担わされていた。
 近ごろサラ金がらみで追い詰められている職員もいたから、声掛けで事故や事件を未然に防ぐことも要求される。課長たる者うかうかと日を送ることなど許されてはいなかったのである。
 だから、押印のメリットは上層部にとって絶大だった。
 職員、課長の双方を見えない権威の管理下に置くことができる。勤務評定する局長のさらに上、郵政局、本省の意向が無言の圧力となって下部に示されていたのだった。
 本省といえば、かつては二流官庁と軽んじられてきた郵政省も、通信分野の台頭でとみに発言権を増していた。
 テレビ局の開設に係わる許認可権、地上・海上から宇宙に至るまでの電波管理、近代になって重要度を高める技術革新の波が、郵政省の地位を急速に押し上げてきたのである。
 郵便貯金、簡易保険積立金を運用する権限は、相変わらず大蔵省に牛耳られている。わずかながら自主運用枠が認められているものの、膨大な資金量からみれば微々たるものである。
 貯金や簡保積立金のほとんどを国の予算に係わる財投資金として提供しながら、使い方には口を出せない。こうした仕組みは、郵政省の役人としては我慢のならない状況だろうとおもうのである。
 だが、権限から遠ざけられている現在の立場は、ある意味郵政省を救っているのかもしれない。赤字国債の累積を考えれば、ある日国民の財産を失って責任を取らなければならない状況が生じたとき、少なくとも運用当事者としての責任だけは免れることができるだろうと考えられるからだ。
 もっとも、近ごろの議論をみていると、それでも財投がらみで郵便局が叩かれている。財投資金に群がる族議員を槍玉に挙げればいいのだが、提供元そのものを的にする論調が主流となっている。
 真相を隠したままスケープゴートを作るやり方は、古今東西変わることなく続いている。
 政治家と公共事業、政治家と役人、そして政治家と巨大な民間企業とのかかわりが、想像すらつかない力のせめぎ合いとなって、郵便局の頭上で音を立てているのだった。
 ともあれ組織の末端にいる郵便局職員にとって、本省と呼ぶ最上部機関は垣間見ることさえ難しいヒマラヤの高峰のような存在だ。
 吉村は一度だけ省内を見学した経験を持つが、おおかたの郵便局員は生涯に一度も本省の建物内に入ることはないと思われる。あらためて<郵政事務官>なる呼称の玄妙さに、思い至るのだった。
 吉村はいつもの朝と同じように出勤簿に判を押した。
 続いて、その横に並べられた当日の担務表を確認した。
 電話中の課長に会釈をして自席に戻ろうとすると、いったん電話を中断した課長が声をかけた。
「吉村くん、ちょっとここに掛けていてくれ」
 中腰になって、パイプ椅子を指差した。
「はい・・・・」浅く坐って、課長から目を逸らした。
 まもなく電話を終わった課長の表情を窺いながら、吉村は何事ですかと目で問うた。
「いや、さっき総務課長から連絡があって、異動の内示があったということだ」
 急に声をひそめた様子に、不安がよぎった。
「・・・・」
「他局なんだが、きみの希望していた保険課だそうだ。肢の具合も大変だろうということで、局長が力を尽くしてくれたらしい。もちろん、わたしからも強く推薦しておいたがね」
 一瞬、狐につままれたような気がした。
 もうすぐ十二月に入ろうかという時期もさることながら、付け足しに書いた交通事故の後遺症が異動の主たる理由に挙げられたことで、なんとも面映い気がしたのである。
 同情を惹く記述は吉村自身の駆け引きだから、面映いなどというのは図々しいのだが、それが決め手なのかと訝る気持ちもあった。
「ほんとうですか」
 吉村は目を輝かせて言った。
 まさか、これほど早く実現するとは思っていなかったから、ほんとうは嬉しいのだ。
(信じられない、信じられない)
 こころの中で繰り返すうちに、実感がともなってきた。
 急に吉村の目に涙が溢れた。
 父が家を出て行ったあと、生命保険のおばちゃんとして営業所でも一、二の契約数を争う母親の顔が浮かんだのだ。
 久美を連れて帰省してから半年しかたっていないが、健在ぶりを見せようと大金を渡してくれた母親の姿がちらついた。
 親子二代同じ保険の仕事をすることになった運命も、感傷の涙を呼ぶきっかけになったのかもしれなかった。
「吉村くん、これはまだ内示だからね。誰にも言っちゃいかんよ」
 課長が吉村の顔を見て釘を刺した。希望がかなった感激の涙と勘違いしたようだった。
「わかりました」
「くわしいことは、あとで話す。もう、席に戻っていいよ」
「ありがとうございました」
 吉村は一瞬の涙が嘘のように、何事もなかった表情で通配区の担務に就いた。
 自分の持ち場に戻ってしばらくすると、それとなく様子を窺っていた先輩の一人が探りを入れてきた。
「吉村、ずいぶん嬉しそうじゃないか」
「えっ、そうですか」
「なにか、好い話があったんだろう」
「なんにも無いっスけど」
「とぼけんなよ。課長がコソコソやってたところをみると、転勤だな?」
 カマを掛けてきた。
 労働組合の部会長をやっているだけあって、さすがに鋭い。とくに人事がらみの案件には、鼻を利かせてしぶとく食い下がってくる。
 しかし吉村とて、ここで悟られるわけにはいかない。実際に辞令が交付されるまでは、人事は何が起こるかわからないのだ。
 内示の段階で大喜びした先人が、愚かにも吹聴してまわったため、妬んだ者から人事関係の部署に中傷がなされ、せっかくの栄転が取り消されたという例もある。
 吉村の場合でも、保険課への転属を何年も待っている職員がいて、あっさり頭を越されたと知ったら大いに不満を抱くに違いない。
 怪我をしたことが思わぬ幸運を呼びつつある今、目の前の組合役員をうまくかわすことが急務となっていた。
「さっきの話ですかあ?」
 わざと間をもたせて言った。「・・・・なんだかんだと大騒ぎしているうちに、今年も年賀の準備に入る時期が来ちゃったでしょう。課長が今年も新しく戸別の区分函を作るのかと訊くから、お願いしますと頼んでおいたんスよ」
 垂れた前髪の下から疑わしそうな目が覗いていたが、それ以上係わる暇は無いという態度で隣の同僚と別の話を始めた。
「ところで、通配は久しぶりなんだけど、何か変わったことなかったスか」
「そう言やあ、二丁目の戸張さんち、いつの間にか誰もいなくなっててね」
「えっ、どうして?」
「やたら督促状が来てたから、夜逃げでもしたんじゃないですか」
 少しばかりトーンを落とした相手に、へエーっと驚いてみせた。
 仕事にかかる前の情報交換は、大切な日課であった。吉村は同僚とことばを交わしながら、立ち上がって目の前の区分口を確認しはじめた。
 区分口の一つ一つには、ファイルが収納されている。戸別組立ての際に必要な住居の情報なのだ。
 ファイルには、静電気のせいで薄黒く汚れたプラスティック製の差し込みサックがはめ込まれ、その一センチ幅ほどの平筒に住所氏名を記した細長い紙を収めてあるのだ。
 正確にいえば、新住居表示による番地、世帯主名、屋号、家族名などが列記されている。それらはいつでも入れ替えられるようになっていて、転出入の届出があるたびに新しくしているのだ。
 郵便局では、それを<現行化>と呼んでいる。情報を得ると同時に訂正を施し、できるだけ現状に近い状況を保つこと、その考え方が叩き込まれているのだ。
 また届出がなくても、一定期間を経て変化が認められれば、配達員の申告によって情報が共有される。
「あの倉庫だったところに、スナックができるらしいぜ。開店サービスでボトルがただだってよ。帰りにちょっと寄ってみないか」
 こんな話題の共有もある。
 あそこの親爺には二号がいるらしいとか、あのマンションの女はネグリジェのまま出てくるので目のやり場に困るとか、内輪の会話ではきわどい言葉が飛び交うこともあるが、外部に向けてはみな口が堅い。
 公務員の守秘義務に関する教育は、けっこう浸透しているものだと、吉村は日頃から感心しているのだった。
 何年前のことだったか、各種の職業に対して「**屋」という呼称を用いないようにとの通達が入った。たとえば煙草屋はタバコ店だし、床屋は理髪店、豆腐屋は豆腐店と言い換えている。
 歴史のある職業名には、誇りこそあれ何ら憚るところはないはずだとおもいながら、あえて異を唱えるほどの理由も持ち合わせていない。
 歴史家や小説家ならいざ知らず、一職員の吉村にとっては素直に通達に従うのが最善の方法におもわれた。

 始業のチャイムと同時に、同じフロアーの郵便課に出向いて、大型ファイバー二杯分の郵便物を台車で運んでくる。
 区分函の前の所定の位置にファイバーを据え、台の上で郵便物を揃えると、左手で五センチほどを掴み上げ、やおら区分し始める。最初こそ慣らし運転に似てゆっくりとした手の動きだが、しだいにスピードが上がっていく。
 いよいよエンジンが掛かったかなと意識したとき、背後から近づいて来た課長に背中をぽんと叩かれた。
「ちょっと一緒に来てくれないか」
 ついていくと、そのまま集配室を出て行く。先にたった課長の背広の裾に、椅子に挟まれてできた皺が残っている。
 エレベーターの前で追いついたところで、課長が振り返った。
「総務課長から呼ばれたんだ・・・・」
「はい」
 背後に置いてきた職場の喧騒が、彼の意識を妙に刺激する。集配室の入口で狭められた人の声が、温もりのない風となってエレベーターホールに反響した。
(保険課でうまくやっていけるのだろうか)
 にわかに湧き起こった不安に抗して、吉村はエレベーターにわが身を押し込んだ。
 吉村たちは、総務課の女子職員に案内されて、課長席の横に置かれた応接セットに腰を下ろした。
 まもなく同じ女子職員が、緑茶の茶碗を載せた盆を運んできた。吉村は丁寧に頭を下げた。ちょうどそのとき、別室から出てきた総務課長が彼らに気付いて近寄ってきた。
「やあ、おめでとう。吉村君は他局でもずいぶん人気があるらしいね」
 向かいの席に腰を下ろしながら意味ありげに笑った。眼鏡の奥の吊り気味の目まで光を和らげていた。
 エッと訝しんだのは、吉村も課長も同じだった。
 問い返す視線には応えず、この場の主が掌を動かして目の前の緑茶を勧めた。
 吉村が飲み終わるのを待って、総務課長が立ち上がった。「・・・・局長が待っているから、ちょっと挨拶しにいこう」
 そのまま局長室に連れて行かれた。
 吉村は制服の裾を正しながら、局長席の前に立った。課長も並んで立った。
「吉村君です」
 斜め後ろで総務課長が声をかけた。
 ちょうど黒塗りの決済箱に書類を仕舞っていた局長が、柔和な顔を上げた。
 もともと郵政局の人事畑を歩いてきたというエリートで、赴任当初から人当たりの柔らかそうな表情を見せて局内巡視を続けていたが、反面、細かい無駄や緩慢な動作に対する指摘の厳しさが伝わってきて、すべての役職者から恐れられる存在となっていたようだ。
「ほう、キミが吉村君か。各課対抗戦で優勝したんだったね」
 すぐに秋の将棋大会のことを指していることが分かった。
「はあ」
 曖昧な返事になった。話題の矛先がなぜ将棋なのか、もうひとつ理解できなかったのだ。
「まあ、向こうへ移ろう」
 窓際に置かれた来客用のソファーを手で示された。
 あらためて向かい合った席で、吉村は今回の内示に至った経緯をほのめかされた。
「いや、キミの転属希望は課長からも聞いていたが、他局からぜひうちに欲しいとの要望があって、それもあって決まったんだそうだ」
 人事の主体がどこにあるのか、明らかにしない言い方だった。
「そうですか、ありがとうございます」
「・・・・蜂谷君を負かしたというんで、ブロック中の保険課で評判になっているらしいね」
 将棋の優勝と転勤を直接結び付けてはいないが、なんらかの理由で吉村に興味を持った人間が、自局に引っぱってみようと動いたことは確からしかった。
 総務課に戻って、正式な内示を伝えられた。
 同じ都内のやや小規模な郵便局だった。そこの課長は三年前まで当局の保険課長をやっていたのだと教えられた。
「ところで、内示のことは一切他言しないこと。分かっていると思うが、辞令が交付されるまでは白紙と一緒だからね。問題を起こさないようにしてくれたまえ」
 ここでも念を押された。
 集配課に戻ると、班長が区分を継続していた。何も知るはずは無いのだが、それとなく気配を感じ取っているのだろう。
「すみません」
 頭を下げると、いやいやと手を振って離れていった。
 班長自身、何度も異動を経験していて、こうした雰囲気から何かを察しているはずだ。あえて訊かなくても、いずれどこかから漏れてくるものだと心得ているのかもしれなかった。
 吉村の口から出たのでなければ、誰も咎める者はいない。発表の二、三日前にはほとんどの人が知るところとなっているのだろうが。
 吉村は組立て作業に移りながら、感傷的な気分になっていた。
(この街区とも、お別れか・・・・)
 確かめるファイルの番地と氏名が愛しく感じられる。
 熊本県の小都市から東京に出て来てこの局に配属された。以来、班が受け持つ四つの通配区と三つの速達区をすべてマスターした。住所、氏名、家族名、そして屋号まで、ほぼ頭に叩き込んである。
 どこに路地があり、どのように道順組立てをしたら効率的か、一方通行や袋小路まで思い描くことができる。
 自転車のとき、バイクのとき、軽四輪で小包配達に出るとき、それぞれの道順は著しく変わる。それらを使い分けることができるからこそ、広範囲を受け持つ担務に指定されることが多いのだ。
 しかし、この懐かしい街ともまもなくお別れだ。
 久美との出会いを用意してくれた路地のたたずまいが、目の中でちらつく。把束紐を投げて注意された日のことが、昨日の出来事のように甦る。着物姿の久美が見せた二の腕の白さが、疼くような感情を呼び起こした。
 吉村の後遺症を慮って転属させてくれたと聞いていたが、局長はそのことに一言も触れなかった。 
 怪我の功名ではなく、どうやら『瓢箪から駒』だったようだ。
 将棋が縁の不思議な転勤。それとなく匂わされただけで、いまひとつ確信は持てないが、蜂谷を負かしたことが予想もしない幸運を呼んだのだろう。
 あやふやな理由に見えて、運命を動かすのは案外そんなことなのかもしれないと吉村はおもった。本人の埒外で事態は進展していたのだ。
 吉村は組み立てた郵便物をざざっと手元にかき寄せ、把束にかかった。
 きょうの事を保険課の佐々木に報告すべきかどうか、あらたな悩みが生じつつあった。吉村はそれを押さえつけるように握り直して、ぎりぎりと縛り上げた。
 
 
  (第十三話)

 

(2007/04/13より再掲)


 
 

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4 コメント

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Unknown (yamasa)
2024-01-13 17:23:27
将棋大会があるんですね。
会社では、昔ソフトボール大会がありました。
夏の夜はビヤガーデンが食堂で会費制でありました。 
今は昔でありませんけど。。。
運動会はなかったですが、運動会がある会社も多いようですね。
懐かしいです。
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運動会ばやり (tadaox)
2024-01-13 23:53:07
(yamasa)さん、こんばんは。
勤務先の会社でいろいろのリクレーションを経験した方は多いでしょうね。
ビヤガーデンが食堂とは豪勢なイベントですね。
運動会をやる会社は多かった気がします。
気象庁の運動会が雨の中で行われていたなどと揶揄したのはあの頃のことだッたなあ。
なつかしいです。
返信する
芸は身を助く (ウォーク更家)
2024-01-16 15:42:25
将棋大会での優勝が思わぬ栄転をもたらしたんですね。
まあ、どの世界でもある話なのかも知れませんが。

これだけ郵便局が流動的で身分が不安定な時期には、失業の心配がない調理師試験を受けるというのは良い考えだと思ったのですが。
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どこでも見る風景 (tadaox)
2024-01-16 17:24:01
(ウォーク更家)様、ありがとうございます。
好運のあとには不運なこともあり得ますから、主人公は調理師免許の資格を取ろうとします。
パートナーを養うために必死の努力です。
ただこの資格は実経験がないと試験も受けられないんですね。
一芸があればおっしゃる通り「芸は身を助く」なのですが・・
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