(ユウレイグモ)
雅恵は台所の壁に何か黒っぽいものが張り付いているのに気がついた。
(こんなところに、紅葉の葉っぱ?・・・・)
チリチリに乾いた公園の落葉が、風に飛ばされて舞い込んできたのだろうと顔を近づけた。
とたんに紅葉の葉がツツーと上部に動いた。
見る角度が変わって、白壁にしがみつく何本もの足が見えた。
「ヒエーっ」
仰け反って、かろうじて椅子の背に手を突いた。
乾ききって縮れた紅葉の葉ではなく、足の長い蜘蛛だったのだ。
東京にもこんなに大きな蜘蛛がいるの?
信じられない思いで、放射状の気味の悪い物体に視力を集中した。
蜘蛛は、壁に張り付いたまま、雅恵の様子を窺っているように見えた。
(なぜ、こんなところに?)
二日前に、医師から白内障の手術を勧められていた。
日帰りでできるし、あまり悪化する前に済ませてしまえば、元通り快適に生活することができる。
このままほうっておくと、手術の際のリスクも上がりかねないという医師の指摘であった。
そんなわけで、半分は手術の方に心が傾いていたが、まだ躊躇する気持ちもあって今の今まで迷っていたのだった。
しかし、顔を近づけなければ枯葉と蜘蛛が見分けられない事実を思い知らされて、雅恵はようやく手術することを決心した。
肉体にメスを入れることへの怖れはあったが、あえて不安を振り払う気になっていた。
医師の話では、眼科における技術的進歩は驚異的なスピードで、五年も経てば現在の理論もたちまち陳腐化してしまうとのことだった。
(だったら、できるだけ後にした方がいいんじゃない?)
そうした迷いを吹っ切れたのは、壁に張り付いた蜘蛛のお蔭かもしれなかった。
雅恵はもう一度、白壁に走るひび割れのような蜘蛛を見やった。
じっと自分の動向を窺っている様子に、気味の悪さを感じた。
(いやだわ・・・・)
台所に立って、昼食の準備をしようとしていたときなので、背後に大きな蜘蛛が張り付いているのが気になった。
ジェット噴射の殺虫剤を探したが、置いたはずの場所には見つからなかった。
雅恵は、ちょうど沸きかけた薬缶の湯を小鍋に入れて、わずかに移動を始めた蜘蛛が静止するのを待った。
蜘蛛は、冷蔵庫まで1メートルの距離で止まった。
危険を察知していれば、そのまま冷蔵庫の裏へ隠れていたかもしれない。
だが、雅恵の動きを軽視していたのか、様子を見るように停止したのだ。
すかさず雅恵の手が動いた。
小鍋の熱湯が、蜘蛛をめがけて飛んでいった。
ビシャ!
壁紙に当たって、湯が飛び散った。
同時に蜘蛛の姿も掻き消えていた。
雅恵は、跳ね返った飛沫の熱を手の甲に感じたが、狙いを外さなかった首尾に満足して心の中で快哉を叫んでいた。
(きっと、死んだはずよ)
雑巾で壁と床を拭きながら蜘蛛の死骸を探したが、どこにもそれらしいものは落ちていなかった。
どこへ行ったのだろう?
掻き消えたのかと思うと、急に気味がわるくなった。
すばやく逃げたとすれば、いつか戻ってきて逆襲されそうな気がした。
それでも、そこに実体があったと考えられるうちはいいが、自分が幻影にたぶらかされていたと思うと怖かった。
「そこまで目が悪くなっている?」
「いやいや、もっと別のこと・・・・」
雅恵は、自問自答しながら心の奥を覗き込んでいた。
その時リビングルームの電話が鳴った。
背後から、いきなり一撃を受けたような衝撃があった。
特別に音が大きかったわけではない。
こんなことに驚くなんて・・・・。
雅恵は自分の神経が昂ぶっているのを意識した。
(ともかく電話に出なくっちゃ)
血圧が高くなったのか、足元がふらつくのをこらえて受話器を手に取った。
「はい、はい」
一瞬、間があった。
「あ、おかあさん?」
「だあれ?」
「おれ、俺だよ。実はいま人を引っかけちゃって。大変なことになっているんだ・・・・」
男の声が、突然涙声に変わった。
「俊夫? 俊夫なの?」
雅恵は、なつかしい一人息子の名を口にした。
「そう、俊夫だよ。かあさん俺を助けて!」
「何があったの?」
「いますぐ示談にしないと、警察へ通報するって言われてるんだ。このままじゃ会社を首になっちゃうから、なんとか金を用意してくれないか・・・・」
男の訴えを聞きながら雅恵は、三途の川をこちら側へ渡ろうとしている息子の姿を目に浮かべていた。
運命に逆らって、母親の住む世界に戻るなんて事できるのかしら?
三年前なら、雅恵の方が奇蹟の生還を願ったはずだ。
運びこまれた病院で死亡が確認された後も、息子の命を甦らせる手段をあれこれ考えたのだから・・・・。
「いくら払えば戻って来れるの?」
「とりあえず二百万円、あとは明日でいいから、すぐにお金を用意しておいて!」
「わかったわ、あなたの保険金そのまま手付かずになっているから、すぐに貯金を下ろしてくるわ」
「・・・・」電話機の向こうで、沈黙の気配があった。
「あ、俊夫、それでお金をどこへ届けたらいいの?」
「あ、ああ、それはこちらから取りに行かせるから・・・・」
動揺している様子だった。
俊夫が還って来るなら、自分の命と引き換えでもいい。
重大な局面に遭遇してパニックを起こしているらしい息子を、なんとか助けてやりたかった。
俊夫はなおも声をつまらせながら窮状を訴え、ときおり考え込んでいる様子だった。
「あなた、しっかりしてね。いまから急いでお金を用意してくるから待ってて・・・・」
雅恵が話している間に、受話器の奥でツツッという電子音が響いた。
(あっ、キャッチ音だわ)
息子が生きているころは、こんな場面がよくあったっけ。
かあさんが長話してるから、なかなか電話がかからないじゃないか。
帰宅するなり、雅恵のおしゃべりに文句を言う俊夫が目の前にいた。
「俊夫、いま他の人からキャッチが入っているみたい。聞こえた? いったん切るわよ。お金は下ろしておくから」
相手は言葉を失い、なすすべもなかった。
「はいはい」
切り替わった電話は、横浜に嫁いでいる妹の恵子からだった。
「姉さん、相変わらず長電話してるわね」
「そうじゃないのよ、今ね、俊夫から電話がかかってきていたの。事故を起こして示談金が必要だって・・・・」
雅恵は、妹に問われるまま電話でのやり取りを説明した。
「わかった、姉さん、それって振り込め詐欺だわ。・・・・そんな分かりきったことに、どうして相手するのよ?」
詐欺そのものより、雅恵の精神状態に不安を感じたようだった。
「姉さん、あとは私が対処するから、姉さんはどこへも出かけずに家にいてね。誰かがお金を取りに来ても、渡しちゃ駄目よ」
恵子は返事も待たずに電話を切った。
二十分ほどして、玄関先に警察官が二人現れた。
手早く事情を説明され、横浜の妹からの依頼であることが分かった。
「それで、まだ息子さんを名乗る男は現れていませんね?」
「まだです。お金も下ろしておりませんし・・・・」
「奥さん、とりあえずこちらで紙包みを用意して来ました。誰かが現れてお金を要求したら、これを渡してください」
二人の警察官は互いに顔を見合わせて、「おそらくバイク便だな」とうなずきあった。
植え込みの陰に一人、離れた路地裏の塀際に一人が待機したようだったが、結局それらしい男は現れなかった。
「今日はこれで帰りますが、万が一また電話がかかってきたり、お金を取りに来るようなことがありましたら、すぐに110番してください」
警察官が帰って一時間ほど経ったころ、横浜から妹が駆けつけてきた。
「姉さん、大丈夫? どうしちゃったのよ、俊夫ちゃんから電話がかかってくるはずがないでしょうに」
「・・・・」
黙りこくった姉の様子に、強い言葉は控えるしかなかった。
「姉さん、ごめん。あたしお線香もあげないうちから・・・・」
リビングルームの一角に設えられた仏壇に歩み寄り、手を合わせた。
線香の煙がたなびき、その匂いが雅恵を現実に引き戻したようだ。
「今日はね、朝から変なことばかりあったの。猫がウツギの木の陰から雀を狙って飛び上がったり、大きな蜘蛛が壁を這ったり・・・・」
紅葉と見間違えて、白内障の手術を決意したことも告げた。
「えっ、どんな蜘蛛?」
雅恵の説明を聞きながら、妹の恵子はたぶんユウレイグモだろうと推理した。
恵子の家にも現れたことがあり、理科の教師である夫に訊くと「イエユウレイグモ」という名称を教えられた。
しかし、恵子の知るユウレイグモと姉の話す蜘蛛のあいだには、どこかピッタリこないところもある。
それに、俊夫の面影が頭を占めている状態の姉に、幽霊蜘蛛とは言えなかった。
まして、熱湯をかけて蜘蛛を殺したかもしれないという状況では・・・・。
「変な蜘蛛ちゃんね。枯葉の恰好をするなんてとぼけてるわ」
「そうなの、それでいて、どこにもいないんだから・・・・」
振り込め詐欺の電話に至る時間の流れが、雅恵自身レンズ状の日常に現れた歪みだったように思えてきた。
(なにもかも、白内障のせいだわ・・・・)
四の五の言わせないために、二三日妹に来てもらって両目いっぺんに手術してしまおうと決意を深めた。
運命的なもの・・・・はっきりと意識したわけではないが、雅恵の想いの中に、蜘蛛の存在と俊夫の幻影があったことは確かだった。
(おわり)
絶妙なタイトルですね。
俺おれ詐欺の声をとうに亡くなっている息子と信じたい無意識願望が、何か哀しいような嬉しいような。
考えてみればごく当たり前の私たちの日常だって、結局のところ頭の中に浮かんだ願望や妄想と目の前にある事実が綯交ぜになったものに過ぎないのかもしれませんし。
その願望や妄想と呼ぶものもいつか実現したときには、事実となってしまうわけですし。
してみると私たちは「夢と現の狭間」で生きているということになるのかもしれません。
その度合いが亢進してきたからといって認知症などと特別のことのように恐れることも・・どうなのかななどと。
いろいろなことを思わされる小説でした。
それを流れるように、謎めかすように、見事に描ききっています。
その一方の主役であるユウレイグモも、幽霊のような息子も、現実的に姉さんも、おまけに警察官までもが、ない交ぜになって現れました。
その登場のさせ方がごく自然で、現実だか非現実だか、読者は惹きつけられました。
それも小説技法のひとつのようですね。
それといつも読ませてもらって思うのは、文章はすべて一行で終わらせていること。
段落を一行で済ますとも言え、これもなかなかの技法と感心するばかりです。
作者はいよいよ円熟の境地で、噺を生み出すことを愉しんでおられるようにも思えます。
これだけ注意を促しているのに、振り込め詐欺の被害が後を立たない・・・・。
若者が宇宙人なら、年寄は地底人?
意識下にかかえる世界は、一筋縄では・・・・。
タイトルについてもありがとう。
現実と非現実を明確に分けるのは無理・・・・といった世界。
文体といったものもあまり意識していませんが、このスタイルが気に入ってまして。
これからもよろしくお願いします。