(山門に死す)
洛外に春が来た頃、ある寺の山門の柱に開けられたホゾ穴に、一人の若者がすっぽりはまって死んでいた。
春霞が晴れてあたりの様子が明らかになると、周りの茶屋の店主や出入りの商人が騒ぎ出し、寺の前は見物の観光客も含め黒山の人だかりとなった。
パトカーは来る、救急車も来る、新聞記者も飛んでくる、おまけに上空ではヘリコプターまで舞ってテレビ中継が始まる。
現場はすぐに青いシートで覆われ、救助の様子を見ることはできなくなっていた。
噂ではすでに死亡しているらしく、今はどのように死体を引き出すかに関心が移っていた。
それにしても、若者はなぜ柱のホゾ穴にはまり込んだのか。
奈良の東大寺大仏殿には、柱の根元にくぐり穴があるらしいが、京都郊外の寺の柱に刻んだ一尺にも満たない切り込みの場合は事情が違っていた。
最初からくぐり穴として用意されていたのとは異なり、ただのホゾ穴に頭からもぐりこもうとした意図は誰にも分からなかった。
ただ、もっともらしい意見を述べる者が何人か居た。
三角関係の決着のために、無茶なホゾ穴くぐりの賭けをしたのだ、とか。
大学受験の失敗からノイローゼになり、狭き門をくぐり抜ける強迫観念に追い立てられたのだ、とか。
いかにもありそうな理由を並べ立てて、説明を試みるのだった。
真の動機は明らかでないが、死んだ若者が一人の女性をめぐって友人と争っていたというのは嘘ではなかった。
また、大学受験に失敗したというのも事実だった。
駆けつけたレスキュー隊は、胸部がつぶれるほど圧迫された遺体をどのように取り出すか悩んだ。
検討の結果、住職の了解を得てホゾ穴の一部を削ることにした。
ノミで慎重に穴を広げ、鬱血した部分をずらして穴から抜き出すことに成功した。
病院に搬送して、監察医の手で死因が明らかにされた。
死んだ男は、パニックを起こし暴れたことによる心臓麻痺だったことが判明したのだ。
死因とは関係ないが、ふくらはぎに若干の打撲と擦り傷が残っていることも分かった。
若者がホゾ穴でもがいていた際、どこかにぶつけたのだろうとの見解が付け加えられていた。
翌日の新聞には、ホゾ穴にはまって死んだ若者の記事がかなりのスペースを割いて掲載されていた。
記者が家族や友人から聞いたエピソードなども、未整理のまま並べられていた。
近所の評判などを聞くと、共通するのは死んだ若者がまれにみる頑張り屋だったということだった。
小学生のころ父親が死に、以来女手一つで育てられたため、中学時代から新聞配達をして家計を助けていたらしい。
高校に入学すると、新聞配達のあと牛乳配達もして学資を稼いだ。
たまに遅刻したり、授業中に居眠りすることもあったが、学校側も大目に見ていた。
ただ、受験勉強の遅れは自分の問題として引き受けるしかなかった。
しかも、志望校が地域一番のA大学一本であったことも不運だった。
知能指数は高かったが、科目ごとの得意不得意がはっきりしていて、学力にバラツキがあったと進学指導の先生はコメントした。
学習塾に通って受験対策に余念のないライバルに比べ、訓練されていない若者は合格ラインを突破できなかったらしい。
美しい女子学生が、この若者に想いを寄せたこともマイナスに作用した。
不本意ながら、女子学生につきまとう学友を阻止することにエネルギーを費やしたからである。
「私を守って! あの人は嫌なの」
さりげない言葉だったが、若者の胸にずしりと響いた。
このような立場に立たされたら、たいがいの男は奮い立たざるを得なかったろう。
死んだ若者は、女子学生の楯になりながら受験勉強との両立に苦しんだはずだ。
あるいはジレンマに耐え切れず、ライバルとの短期決戦を思い立ったのか。
数学を得意とする若者は、山門のホゾ穴の径と自分の細身の体を見比べて、必ずくぐり抜けられると計算したのかもしれない。
それとも噂のとおり、大学受験の失敗からノイローゼに陥り、ホゾ穴と狭き門を重ね合わせる妄想にとらわれたのか。
「リン、ビョウ、トウ、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン」
死んだ若者は、人知れず九字の修法を唱えることがあったという。
結印と同時に、ホゾ穴に飛び込んでいった可能性も否定できなかった。
死んだ若者の下宿する三畳一間の本棚から、念力や念写など超能力に関する本が何冊も出てきた。
新聞の続報で伝えられたところによれば、超心理学の教授が書いたハウツウものも含まれていたらしい。
さらに週刊誌がフォローしたところでは、気功やヨーガについての研究書も多数あったという。
とりわけ本山博教授の実証的著述に心酔していたらしく、古今の超常現象に並々ならぬ興味を抱いていたようだ。
例えば、旧約聖書の中の奇蹟、密教における秘法、合気道の極意、居合い等。
また、ユリゲラーのスプーン投げ、マクモニーグルの遠隔透視、福来友吉博士の念写研究、UFO映像などにも、人一倍の興味を示していたらしい。
週刊誌の記事で目新しかったのは、ホゾ穴での圧迫死に至る動機を探る一方で、死亡時の情況を初めてイラストで再現したことだ。
それによると、頭から突っ込んだ若者は腹ばいの姿勢で息絶えていた。
両肩に続き、腕の途中までは完全にはまりこんでいた。
誰かが力を貸せば、ギリギリ頭から通り抜けられそうな際どい位置にいた。
イラストでは、若者の体は水平に伸び、一本の棒のように描かれていた。
他にも些事についてあれこれ憶測する娯楽紙はあったが、どこも若者がホゾ穴にはまった原因を突き止めることができなかった。
死んだ若者は、密かに獲得した超能力を試すための実験中に不測の事故に遭ったのではないか。
意志の力で体躯を縮める方法とか、あらゆる関節を外す技とか・・・・。
恣意的な結論を導いて、読者の好奇心を煽り立てる手法だが。
反対に、今回の出来事は、夢遊病に見られるような無意識行為だったのかもしれないと考える人もいた。
夢に誘われて、暗黒空間に身を投じたのだ、と。
いずれもありそうに見えて、決め手のない推理に終始した。
一連の報道をみて、ニヤニヤ笑う猫がいた。
猫は、何も知らずに右往左往する人間を憐れんだ。
その猫は、実は死んだ若者が愛してやまない飼い猫だった。
名を「チェシャ」といい、若者が一人のときは必ず付き添っていた。
飼い主と共にいて、もっともゆったりできる時間は夜の睡眠中だった。
アルバイトと勉強で疲労困憊した若者は、数時間の眠りだけが解放される場所だった。
この睡眠時間帯は、傍らで丸くなって眠る「チェシャ」と共有の領域だった。
互いの世界に行ったり来たりして憩うのに、目が覚めると何ひとつ覚えていないのだ。
その夜、「チェシャ」はいつにも似ず落ち着かない眠りの最中にあった。
どこかから、しきりに自分を呼ぶ声が聞こえてくるのだ。
ミャー、ミャー。
関わりたくない思いの一方、懐かしくも感じる音調が、しじまを縫って耳元に届いた。
(誰かが呼んでいる・・・・)
黒猫は誘われるように、むっくりと起き上がった。
山地に近い場所のせいか、春とはいってもまだ冷えが忍び寄って来ていた。
外に出ると月はなく、樹木ですら寝静まっていた。
黒猫は濃い闇の中を、何かに導かれるように進んだ。
意識せずとも、向かうのが山門の方向であることを知っていた。
どこかで自分を呼ぶ声がする。
寺の奥山のような気もするし、離れた里からの声が反響してやわやわと流れてくるようにも思えた。
黒猫は、いま春という季節から呼ばれているのを肌で感じていた。
自分が「チェシャ」であるかどうかも意識していなかった。
急な石段を登り、ひたひたと寺域に入っていた。
「リン、ビョウ、トウ、シャ・・・・」
修業する飼い主の声が、残響となってあたりに満ちている。
抜け出て来るとき、勉強に疲れた飼い主はうつ伏せになって眠っていた。
自分ひとりが誘われるように闇に紛れたのだ。
ひたひたと迫るものがある。
もしかしたら、「チェシャ」に追いすがる飼い主の気配だろうか。
振り返ろうとした瞬間、ものすごい威嚇の音が響いた。
「グワーン」
黒猫は、後ろ足に迫る熱い風を感じた。
とっさに飛び上がり、目の前の山門によじ登った。
背後から凶暴な鳴き声が飛びかかってくる。
黒猫はたまらず、そこに穿たれていたホゾ穴にもぐりこんだ。
「ヒーッ」
自分の想いとともに、別の怯えが紛れていた。
黒猫は、ほとんど「チェシャ」の状態に変わっていて、それを意識した瞬間、体がグワーンと膨張するのを知覚した。
ウウーッ。
暴れても、もがいても、ホゾ穴から抜け出ることはできなかった。
黒猫も「チェシャ」の状態も消えて、ホゾ穴にはまった飼い主の若者だけが残った。
明け方の靄が晴れて若者が発見された経緯は、初めのとおりである。
死んだ若者の下宿に黒猫が戻っていたかどうか、気にする者は誰ひとりいなかった。
(おわり)
のっけに〈洛外〉なんて、いまどき見慣れない単語が出てきたところから、不思議な世界に引きずられていったりして。
主人公の全体像は徐々に明らかになっていきますが、突然のように愛猫の出現。
それが死因と繋がるような、そうでないような……。
とにかく、著者の創作力に感嘆です。
これで当〈超短編シリーズ〉は三十本を超えているなんてますます驚嘆します。
手変え品変えの魔術を見せられているようです。
31作目から、新たな試みをとおもって少し変わったものを書いております。
それにしても、猫は奥が深くミステリアスで気に入っています。
これからも、よろしくお願いします。