キャンパスの芝生に足を踏み入れると、教室内とは違った種類の暑さがあった。
長い間咲きつづけてきたツツジもいつしか散り、花壇はふたたび緑一色に染まっていた。
山野正夫はそこの縁石に足をかけ、ずれてきたテキストを膝の上で留めなおした。
本はブックバンドから外れるほど曲がっていたわけではないが、彼はそうしながら考え事をしていたのだ。
現在、学内の一郭で熱っぽい議論が交わされている。
退学を言い渡された五人の仲間のための抗議集会だ。
それは結果的に、最期のはなむけになるのは分かっていたが、彼もその原因に多少なりとも関わっていた者として、出ようか出まいかと逡巡していた。
出ないつもりでここまで来たのだが、なおも後ろめたさに悩まされるのだった。
来春から授業料を値上げするという大学側の発表に騒然としたのは、冬がようやく深まりかけていた頃だった。
学生たちは、事情を説明に来た教授を二昼夜にわたって吊るし上げた。
一応の理屈はあったが、それは年老いた一人の男を長時間拘束するほど妥当性があったわけではない。
結果的に学生側は、老人相手に自分たちの耐久力を誇示しただけかもしれなかった。
そして、その渦中に山野正夫もいた。
興奮と空腹と苛立ちが、彼らの心をしだいに殺伐にしていった。
疲労で目を閉じかけた男に罵声を浴びせかけ、喧騒に引き戻しては再びなぶった。
泥沼のような時間を引きずることで、何らかの解決がもたらされるのを待っていたのである。
機動隊が導入されたのは、三日目の午後だった。
バリケードを撤去しながら突入してくる隊員たちを見たとき、正夫は明確に恐怖を覚えた。
角材などを持ち込んでいる者もいたが、学生のほとんどは素手だった。
それでも、何人かの煽動によって喚声をあげ、抵抗の姿勢を見せた。
多数の学生が、たちまち警棒で叩き伏せられた。
正夫の目の前で、警官に追われた女子学生が椅子につまずいて転んだ。
とっさに、彼は飛びついて身体で覆った。
振り下ろされた警棒を背中に受けた。
次の瞬間、二人重なったまま強い力で引き起こされ、教室の隅へ突き飛ばされた。
もろ手を挙げたまま、壁に向かって立たされた。
しばらく屈辱的な姿勢を強いられた後、正夫たちは公務執行妨害容疑で逮捕された。
厳しい事情聴取のすえ、身元引き受け人を用意することで帰宅を許された。
中心的役割を果たした数名を除き、大半の学生は長期の拘留を免れたのだ。
田舎で小学校の教員をしている兄は、唐突な呼び出しを受けて落ち着かない表情をしていた。
表向きは神妙な態度を保っていたが、一歩施設を出るとこらえていた感情が爆発した。
「正夫、おふくろが寝込んじまったぞ! おまえ、いつまで甘ったれている気だ」
正夫の学資は、目の前の長兄の援助によるところが多かったから、そのことを言われているのは明らかだった。
「・・・・」
正夫は口惜しさを抑えて、唇を嚙んだ。
「なんだ、何か言うことはないのか」
容易に謝罪の言葉を口にしない弟に、兄もまた憮然としていた。
気まずい感情が、正夫の体内でぐびぐびと蠕動を繰り返した。
取調室で刑事の罵声を受けているときよりも、重苦しい苦汁となって沈殿した。
「おい、いつまでも甘ったれているんじゃないよ。・・・・おまえら、あのまま幾日閉じ込めるつもりだったんだ? 誰が首謀者なのか、さっさと吐いちまいな」
恫喝されて煽動者の名前を口にした屈辱よりも、身内の示す困惑に満ちた溜め息の方が彼の心を弱らせていた。
「どうした、何か言うことはないのか」
黙秘と勘違いさせる正夫の沈黙に、当初、刑事も兄が発したのと同じ言葉で彼を非難した。
「・・・・徒党を組んでワーワーやっていたくせに、一人になると何もしゃべれないのか」
チラッと刑事を見やった正夫を、刑事の巨大な目玉が迎え撃った。
拗ねたような若者の態度に、イラつく感情を持つのは誰でも同じだったかもしれない。
ただ、損得の絡まない他人の反応は、爆発的だがむしろすっきりしていたように思う。
「おれは忙しいんだ。いつまでおまえらの子守をやってる暇はねえ」
ドンと机を叩いて、後ろを振り返った。「・・・・誰かこいつの検査をやってくれ。何か出てきたら、もう一晩お泊りしてもらえ」
からっとした場面が甦るまで、正夫は記憶を遡った。
肉親相手の重苦しい感情から逃れるには、落としどころのはっきりした取調べを受ける方が、よほど楽だったのである。
とりあえず、おとなしく兄に同道して実家の母を見舞った。
母は兄のいうほど弱っていたわけではなく、正夫の顔を見るとすぐに安堵の表情を見せた。
「おまえ、この先どうするつもりだい?」
嫌味ではなく、心から心配しての言葉だった。
「うん、しばらく休学して、学費を作ることにする」
「・・・・」
兄は正夫の返事をどう聞いたのか、賛成の意思も反対の意見も示さなかった。
弟が心を入れ替えたとは思えないが、不貞腐れているのかどうかまでは判断がつかなかったのだろう。
どちらにせよ、学費の援助を辞退する意味の発言であることは確かだった。
兄にとっては、現実的に出費が減ることは悪い話ではない。
その点、正夫が自ら申し出たことで、両者の思惑が一致したといえた。
事情聴取から休学申請に至る経過は、山野正夫に予想通りの脱力感をもたらした。
しかし、授業料の納入は半期先まで済んでいたから、現時点では単位をとっておくのが得策だった。
正夫はアルバイト先を探しながら、学生運動から一歩退いた位置で必要な講義を取り続けた。
追い詰められた立場が、彼に見栄や義務感をかなぐり捨てさせた。
なりふり構わず生きるすべを彼に与えたのだ。
学内の抗議集会に背を向けてきたことで後ろめたさは残ったが、集会の場から外れてしまえばさほど気になるものでもなかった。
花壇の縁石に足をのせ、ブックバンドを整えたついでに靴紐を締め直した。
若い身体は、不自然な姿勢にも柔軟に対応した。
正夫は何事もなかったように腰を伸ばし、そのまま大股に歩きはじめた。
梅雨期というのに雨が少なく、コンクリートで舗装された構内の道路は白く乾ききっていた。
彼は引きずるような靴音を発てて、構内出口に向かっていた。
守衛所が目の前に迫っていた。
本を支える手に、熱した風が触れて過ぎた。
正夫は、一人の女性が放つ体の温もりを思い出した。
あの日以来、無意識に彼女の存在を探していることを思い知らされた。
思えばまったく偶然の出会いだった。
学内では見かけたことのなかった女子学生が、まるでサッカーボールのように目の前に転がってきたのだ。
機動隊の装備が眼の端に映った瞬間、正夫は考える暇もなく身を挺して彼女を庇っていた。
背中にずしりと食い込む警棒の打撃が、身体の下に蹲る女子学生の身代わりを強く意識させた。
痛みとは別の感覚が全身に広がり、悦びに似た感情がじわりと湧いていた。
大学が閉鎖されていた間、正夫は女子学生との再会を期待して背中に残る痛みを指でなぞったりした。
言葉一つ交わしたこともないのだから、肉体に刻まれたむず痒い痛覚が唯一の拠りどころだった。
彼は、自分の心に嘘をついていた。
掌に残った温もりなど、彼にとって希釈された感情に過ぎなかった。
身体に刻印された悦びをごまかすために、あわあわとした感傷に摩り替えていたのかもしれない。
大学が再開されてから、彼はずっとその時の女を探していた。
だが、なかなか彼女の姿を目にすることはできなかった。
(学外からのオルグだったのか・・・・)
ひ弱な女性と思っていた者が、実は筋金入りの活動家だった可能性も否定できない。
セクトの対立が目立ってきた時期だから、組織拡大に向けて女子の役割は大きくなっていたのである。
(つづく)
久々に始まった連載小説、滑り出し上々ですね。
取りあげられた舞台と登場人物が大学に置かれているところは、この作者の作品にとって稀有ではないでしょうか?
それだけにどんな展開をみせるのか楽しみです。
時代背景とか考証もよろしく。
些細なことですが、文中の「出費が経る」は、「……減る」じゃないでしょうか?
(くりたえいじ)様、舞台はすぐに移ると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
ご指摘の変換ミスは今直しました。
ありがとうございました。
屈折を抱えた若い男と女のものがたりになる予感で、先が楽しみです。
大いに期待しています。次回をなるべく早く読みたいです。
「大学の再会」は「再開」なのでは。
(知恵熱おやじ)様、パソコンの置いてある部屋まで、クーラーの風がなかなか届かないですよ。(言い訳で~す)
「再会」→「再開」に直しました。
ありがとうございました。