どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

吉村くんの出来事 (第十七話)

2007-06-08 09:58:08 | 連載小説


     新世界より

 腰を痛めて集配課から貯金課に移った間宮が、久しぶりに演奏会のチケットを送ってきた。
 今回のプログラムには、ドボルザークの『新世界より』が入っていた。他の楽曲も含めて三つのパートで構成されていた。
 アマチュア・バイオリニストの彼は、休日や勤務終了後の時間を使って練習に励んでいるらしく、郵便局の同僚とはあまり交流する時間がないようであった。
 酒は嫌いではないので、仕事帰りに気の合った仲間と居酒屋に寄ったりすることもあるらしいが、趣味の違いが大きすぎてとことん付き合うところまではいかないようであった。
 むかし一緒に草津へ旅行したときは、年上の八田とウマの合うところを見せていたが、今はどうしているのだろう。
 同じ局舎の中とはいえ間宮が貯金課へ転属してしまってからは、以前のような付き合いはできないだろうとおもった。
 事情は吉村も同様で、転勤前に付き合っていた仲間とはほとんど会う機会がなかった。
 集配課の仲間は一番気が置けなくて、顔さえ合わせればすぐに打ち解けられるはずなのだが、皇居を隔てただけの距離なのに会う機会もなくなり、ひどく遠い場所に来てしまったような寂しさを感じていた。
 そんな折だから、招待状を贈られたことがいつになく嬉しかった。今度の演奏会にはぜひ行ってみようと期待を寄せていた。
 ただ会場が地下鉄千代田線の金町の方で、普段行き慣れない場所なので多少億劫に感じるところはあった。
 これまでも北区とか江東区、それに府中市などどちらかといえば東京の周縁部が多かった。
 公会堂や市民ホールが会場になっていて、土曜の半日を割いて出かけるのが面倒だとおもうこともあった。
 会場が都心から遠いのには理由があって、できるだけ予算を切り詰める必要からそうしているのだ。
 有料で観に来てくれる客は少なく、ほとんどが家族や友人を動員する形になっている。当然、主催者は演奏会の度に持ち出しになっているにちがいない。
 最終的にはオーケストラ参加の団員が費用を負担することになるのだろうが、他人に音楽を提供するのに身銭を支払うというのはどこか矛盾しているような気がした。
 吉村は、これまでのコンサートを聴いた印象から、彼らはアマチュアとしてはなかなかの力量を備えているとおもっていた。
 昼間はさまざまな職場で働きながら、よくぞここまで息の合った演奏ができるものだと感心するばかりだった。
 国や自治体は文化活動にもう少し援助をすべきではないのか。ヨーロッパの国々のように、都市の外観と音楽が共に響きあう街を作っていくべきではないのか。
 間宮の活動をみていると、予算の一部を彼らのようなアマチュア芸術家にまわしてやったら、いくらかは潤いのある市民生活が営めるのではないかと夢のようなことを考えたりしていた。
 当日は少し早めにマンションを出て、水元公園に近い会場に向かった。
 午後二時の開演を前に、客席は八割がた埋まっていた。
 吉村は左側後方の横に十席ほど並んだ椅子席の中央に坐った。ステージまでの距離はけっこうあったが、すでに配置された譜面台やチューバ、ティンパニ、コントラバスなどが楽師の登場を待って息を殺していた。
 舞台の袖から、思い思いに調弦するバイオリンの音が漏れてくる。いよいよ開演かと息を整えたとき、突然五、六歳の男の子が舞台に這い上がって指揮台の上に立った。
「タクヤ、何してるの!」
 母親らしい女性が慌てて後を追った。「・・・・早く降りてきなさい」
 パニックを起こしている。
 子供はかまわず客席のほうを向いてタクトを振る真似をした。親に何度も連れられて来ているうちに、指揮者の身振りに興味を抱いたのだろう。
 爆笑と拍手に迎えられて、男の子のパフォーマンスが終了した。
 恥ずかしそうに頭を下げる母親と無邪気な子供が客席に戻ると、騒ぎに気付いて顔を覗かせた進行役の女性が、いったん引っ込んでから再度登場して開演を告げた。
 演奏者が男女ともフォーマルな衣裳に身を包んで静かに登場する。おおむね緊張しているはずだが、中には客席を窺って妙な笑いを口元に浮かべる女性もいる。
 照れているのだろうが、その部分から曲の破綻が始まっていくような気がしてくる。
 まだ最初の音が発せられていないのに、そんな風に感じてしまう自分を「生意気かな?」と反省もしたのだが・・・・。
 全員が持ち場に付くと、コンサートマスターが立ち上がって楽団のリーダーであることを全員にアピールする。第一バイオリンの主席奏者としての誇りが、短く奏でられる音にも籠められている。
 間宮は今回も第二バイオリンを受け持っていた。黒のスーツと真っ白のワイシャツから長い首を抜き出している。普段から姿勢は良いほうだったが、こうした場所で見るといっそう背筋が伸びていて職場の彼とは別人のように思えた。
 準備万端の様子を確かめてから、指揮者が足早に登場した。
 見覚えのある小柄な年配者だった。薄くなった頭頂部を横からずりあげた髪で覆っている。ピンか何かで留めているのだろうが、ザルをかぶったようで遠目にも不自然に見えた。
 背を向けた瞬間に笑声が漏れたのは、髪のせいではなかったとおもう。つい今しがた指揮をし終わった男の子の姿と、否応なしに重なったからだ。
 誰が悪いのでもない。計算外だからどうしようもなく可笑しいのだ。
 何事かと一瞬後ろを気にした指揮者だったが、すぐにオーケストラの隅々まで目で合図を送り、音が生まれ出る瞬間に呼吸を合わせた。
 最初のピアニシモが小さく小さく身を縮めた指揮者の手の中から生み出される。カラヤンだ、小澤征爾だと指揮者ばかりに陽のあたる風潮をもう一つ理解できないでいたが、目の前の音の支配者が紛れもなく風采の上がらぬ老人であることを思い知らされて、音楽の深みにまた引きずり込まれたのだった。

 休憩があってロビーに出てみると、見知った顔ぶれが三人寄り集まっていた。
「やあやあ、ひさしぶりっスねえ」
 声をかけてはしゃいだのは吉村のほうだった。
 一人は八田、あと二人は顔は知っているが深くは付き合いのない後輩の集配課の職員だった。
「元気だったか」
「ええ、八田さんも・・・・。相変わらず渓流釣りに行ってますか」
「おお、先週は久慈川の奥まで行ってきたよ」
「へえ、うらやましいっスねえ」
 吉村は話が弾むのを喜びながら、一方で若手の二人がつまらなそうにしているのが気になった。
 先輩の八田に引きずられてきたものの、慣れないクラッシックの音階に馴染めなかったのかもしれない。
 おそらく演奏終了後に立ち寄る居酒屋が目的で付いてきたのだろう。耳の奥では早くもカラオケのイントロが響いているのかもしれなかった。
 コーヒーを飲む間もなく休憩は終わった。吉村は会釈をして自分の席に戻った。 第二部は、プログラムを確かめるまでもなく、この日の目玉となる『新世界より』第一楽章と第二楽章が予定されていた。
 東京で郵便局員になりたてのころ、訪問セールスの女性に分割で買わされた『世界音楽全集』の中で、ドボルザークはベートーベンやチャイコフスキーと並んで好きな音楽家のひとりだった。
 第一楽章も聴きなれているが、小学生の頃から『家路』として馴染んできた旋律が繰り返し現れる第二楽章は、日本人なら愛してやまない郷愁に満ちていた。
 間宮たちがどのように演奏するのか、吉村は耳が覚えた旋律を心にひびかせながら、逸った気持ちで演奏開始を待ち構えていた。
 演奏が始まると聴衆の集中する気配が客席を覆った。微かなしわぶきが聞こえるだけで、集まった人びとの期待感が素直に感じられた。
 新大陸アメリカを謳った曲だと教え込まれていた気がするが、現在はドボルザークの生誕地ボヘミア地方の風土から受けた影響が色濃く投影されているとする説が大勢を占めていた。
 かつてはそのことで論争が巻き起こったことがあったらしいが、音楽に限らず絵画や文学においても、作品そのものを味わうことより細かく分析することで自分の知識をひけらかす人が多すぎる気もする。
 評論家や解説者というものは、押しなべて天賦の才能に恵まれていないのではないかというのが吉村の感想だ。
 誰もが自分のハサミを万能のように思い込んで振り回すが、傍からみると何故かみすぼらしく映ることに気付いていないのだ。
 そんなことをするより、黙って聴いたり観たりしたほうが余程深く味わえるだろうにと、彼はいつもおもうのであった。
 間宮たちの演奏は滞りなく進んでいったが、ところどころ金管楽器の音が不安定に聴こえる箇所があった。
 演奏者の息づかいがそのまま反映される楽器だけに、訓練や体調管理の是非が表れやすいのではないかと、いつの間にか吉村自身が分析魔になりかかっていた。
 第一楽章から、第二楽章へ。
 テーマが変わった途端に胸の中に漣が走った。八代で過ごした小学校時代の甘い記憶が、旋律と共に甦ってきた。
 放課後の校庭で遊んでいると、夕闇には多少の間がある微妙な時間帯に拡声器からあのメロディーが流れるのだ。
 母の呼び声のようなやさしさに満ちた間合いを持つ音階が、少年たちの頭上に降りてくる。
 誰からともなく野球のボールを拾い、バットを片付けて家路に就く。
 河口の町、干潟の町で毎日のように繰り返される少年たちの日常。疑問を持つこともなく享受し愛した時間が、いま目の前に存在するかのように匂い立ってきた。
 吉村はゆったりと弓を操作する間宮の上に視線を置いたまま、自分だけのスクリーンに映る八代海の夕焼けを見つめていた。
 第二楽章のテーマと夕焼けは何故か切り離せない。
 作曲者の意図がどこにあろうとも、少年の体の中に染み込んだ旋律はすでに血肉化して別物になっている。
 音が会場の空間に拡散し、やがてどこへともなく降りていった。
 アマチュア楽団の演奏会は、つつがなく終了した。
「よしのちゃん素敵だったわね」
 吉村の隣の席に坐っていた二人連れの若い女性が、演奏者への賛辞を口にして通路に出て行った。
 これからの十数分間、よしのちゃんを入口近くで待ってキャーキャー言いながら合流するのだろう。
 吉村も八田とその連れを目で探した。
 両端の通路をぞろぞろと出口に向かう観客を追ったが、それらしい三人連れを発見することはできなかった。
 時間とともに屯する人数がはけて、ひと塊の男たちが目に入った。八田たちだった。
 所在無くたたずむ前かがみの姿勢に、これから間宮と一緒にどこかの居酒屋に立ち寄りたいという思いがありありと見てとれた。
 吉村はもし間宮がそれを望むなら、短い時間でも付き合わなければなるまいと思っていた。プログラムを送ってもらった感謝の気持ちもあったが、今日の演奏に対する満足を伝えておきたいとの希望もあった。
 さらに五分ほど経って出てきた間宮は、八田たちに片手を挙げて即座に謝る仕種をみせた。
「いやあ、ごめん。急なことで申し訳ないんだけど、モトマチ先生が近くY響の指揮をすることになって、今夜は皆でお祝いすることになったんです。一緒に行けなくて、ごめん」
 吉村はこの後の展開を察知して、間宮にすばやくお礼と賛辞を言った。
 間宮はにこやかな笑顔を見せたが、心はすでにモトマチ先生や仲間のもとに飛んでいた。
 それはそうだろう。先刻まで共に音を磨き上げ、音の至福を分け合った指揮者と演奏者である。まだまだ緊張の解けきらない興奮のなかにあっては、家族との絆以上に連帯の気持ちが働いているはずだ。
「じゃあ、また今度・・・・」
 吉村は間宮に別れを告げ、八田にも会釈をして先に会場を出た。
 金町の駅まで歩き、どことなく侘びしいおもいで電車に乗った。休日の夕方のせいか都心に向かう車両なのに人影はまばらだった。
 吉村は前回も同じような寂寥感を覚えたことを思い出した。
 あのときは確か王子の会場だった。吉村がまだ高円寺のアパートに住んでいたころのことで、どこをどう乗り継いだのか住まいに着くまでにひどく時間が掛かった覚えがある。
 その日演奏されたヨハンシュトラウスのワルツが、いつになく未消化な印象を残していたことまで思い出される。
(きょうは良かったよ・・・・)
 今日の侘びしさは単に慣れない場所から受ける違和感と、夕刻になって急に冷え込んできた気候のせいなのだと、間宮たちの演奏に対する贖罪のように心の中でもう一度拍手を送った。

 吉村を転勤時の研修から育ててくれた課長が、定期異動で新宿方面の郵便局へ転勤して行った。
 代わりにやってきたのが何とも虫の好かない男だった。
 吉村とて、人の評価を外見の印象から決め付けるのは好くないと解っている。だが、ものごとは論理だけでは律しきれないこともある。
 保険課職員を前にした挨拶から始まって、どんな場面でも柔和な心が感じられななかった。もちろん笑顔らしきものはない。口元だけの問題ではなく、目が笑わないのだ。
 冷たい目で斜め下から相手の様子を窺う。その目つきに出合った瞬間、吉村の腋の下に不快な脂汗が滲み出たほどだ。
 郵政局の人事の妙と讃えられる伝説のひとつに、課長という駒の配置があげられる。何十年にも亘って語り継がれている伝統だ。
 温和な課長の後には、厳しさに定評のある後釜を据える。今回が典型的な例だった。
 言葉で整理してしまえば大したことではないが、東京都内の普通局を中心に全体図を俯瞰しながら、栄転・降格・横滑りを決めて規律が保たれるように工夫しているのだ。
 実際の人事に一喜一憂する当事者の目で見ると、やはり郵政局の人事担当者はしたたかだとおもう。
 吉村も周囲から聞こえてくる諦め半分の納得を理解している。だが、それにしても今度の課長は性格的な面で通常の範囲を超えているのではないか。忌憚なく言えばサディストじゃないのかとまで感じていた。
 郵政局は既存の課長を動かすだけでなく、毎年、内部研修制度を修了した新進気鋭の青年職員を、ほやほやの課長としてデビューさせる役割も担っている。
 それら対象になる役職者の勤務実態や多岐にわたる趣味・性格を勘案しながら、将棋の駒のように巧みに盤上に配置するのだ。
 毎年定期異動の季節になると、郵便局の訳知り者が予想屋よろしく次期課長の候補を予測するが、ついぞ当たったためしがない。
 人事はやはり郵政局の独壇場なのだ。
 すべてを把握したうえで展開するオセロゲームのような人事は、評判になるだけあって理に適っている。
 桃太郎の後は、鬼課長。白の後は黒に変わるのだ。
 つまりオセロのような展開がいつ起こるか分からないから目がはなせない。郵便局員の意識の引き締めを図るにはもってこいの手法という訳なのだろう。
 末端の職員には大迷惑でも、上部機関にとっては悪役も大切な駒のひとつとなっている。
 オセロ人事は、長年受け継がれてきた伝統どおり今回も実行されたというわけである。
 それにしても、こんどの課長は最悪だ・・・・。吉村は嘆息した。
 鬼なら我慢もできるが、職員の些細な失敗をほじくり出してねちねちと締め上げる蛇のような性格の男は耐えられない。
 蛇蝎のように嫌われるという言葉があるが、その表現がピッタリだと吉村は身震いした。
 そんな課長なのに、早くも取り入って密談を交わす役職者がいる。
 吉村は自分の性格がかなり融通の利かない部類なのかと不安になった。この課長とどこまで折り合っていけるか。先のことを考えると、漠然とした心配がつぎつぎと浮かんでは消えた。
 職場で嫌な状況が生じてくると、吉村はそそくさと久美の待つマンションに戻ることが多くなった。
 かつて唐崎のお供で、客の接待の席に慣れようとしたこともあったが、真から馴染むことはできずに自分の巣に逃げ戻った。そのときと同じように、索漠とした気分に陥ることが多くなっていた。
 仕事がらみでは、法人契約の解約が増えていた。職域センターの役割は、それらの残務処理に時間の大半を取られていた。
 二分の一損金処理のメリットは養老保険の配当金によるところも多かっただけに、当初の思惑が外れた会社から苦情を持ち込まれることも少なくなかった。
 また、税務処理上有利とされ、あれほど隆盛を極めた手法に対しても、法人税収の低下にともなって国税の見る目が厳しくなっていた。
 役員の退職準備金も、限度を超えたものと判断されれば利益として修正申告の対象とされた。
 社員旅行なども二泊以上となると疑惑の目を向けられ、他の項目までチェックを受ける惧れが生じるので自粛せざるを得なかった。
 必要以上の備品調達、買い替えにも細かい指摘が加えられる。簡保加入時には自信満々のアドバイスをしていた郵便局専属の税理士も、いまや半分逃げ腰で自らの責任回避に汲々としていた。
 職域チームが敗戦処理を引き受けたからといって、それで手当てはもらえない。
 吉村は給料を好調時のせめて七割程度に保つために、料亭主や病院長など比較的難しいとされているターゲットに飛び込みでアタックした。
「おやおや郵便局さん、めずらしいことがあるねえ。ここで三十年開業しているけど、ぼくのところへ訪ねてきたのは初めてだよ」
 吉村は期待感を抱きながらも、客のセリフに「またか・・・・」とおもった。いまと全く同じような状況が外務員研修中にもあった。
 初めての保険勧誘でいきなり一千万円を契約してくれた市丸の顔は、生涯忘れることがないだろう。
 あの時の喜びには到底及ばないが、院長夫妻がそれぞれ満額で加入してくれたことはやはり嬉しい出来事であった。
 曇りのち晴れ。・・・・雨に降られる前に挽回できたのが慰めだった。
 まもなく職域センターがなくなり、吉村は元の保険課に戻された。
 唐崎は課長代理の役職を付けられて、下町の郵便局に放出された。
 いつかはこんな目に遭うかも知れないと考えたことはあったが、これほど早く現実のものになろうとは思いもしなかった。
 やはり晴れのち曇りだったか。
 吉村はもともとの保険課職員に戻された瞬間から、歓迎されていないことを感じていた。いやいや、それ以前から分かっていたよと吉村自身はおもうのだが、そんなことは何の慰めにもならない。
 特に、保険課の空気に染まるかたちで新任課長が吉村の様子を見ているのが気味悪かった。

 この分では、曇りのち雨か。
 落ち込みかけていた帰り道、水天宮通りの果物屋で見つけたデコポンを久美への土産にした。ふるさと熊本を代表する名産品に、つい心が動いたのかも知れなかった。
「ただいま」
 当たり前すぎる帰宅の掛け声にも日々の気配を嗅ぎ取る久美だから、吉村の方も明るくふるまう習性はできている。
「洋三さん、ちょっと報告があるの」
 吉村が差し出したデコポンの袋には気が回っていないらしく、傍らのテーブル上に無意識に載せて気付きもしない。
 上気したような久美の表情からも、何かを伝えたがっているのが見てとれた。
「どうしたの?」
 ことばを発した瞬間、思い当たることがあった。
「やって来てくれたの・・・・」
 久美らしい言い方だった。
「できたのか!」
 なぜか慌てるのが吉村だ。「そうか、授かったか・・・・」
 喜びの裏で不安がよぎる。
 よりによって、嫌な課長のゴ入来がわが家の喜びと重なるとは。・・・・我慢して妥協するか、抗戦するか。ひたひたと迫ってくる課長の仕掛けを感じながらも、その場は久美を讃え、久美と喜びを分かち合った。
(新世界から・・・・か)
 ぴったりこない連想だったが、赤ちゃんが吉村にも新しい世界への入口を見つけてくれるようなワクワクする喜びをもたらしたのは確かだった。

     

 
 
 
 
 

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十七話 (丑のたわごと)
2007-06-10 11:16:14
失礼ですが、今回の話を読ませてもらって初めて、笑いが何度も込み上げてきました。演奏会場の現象や出来事などに対する著者の緻密で軽い筆致と観察眼に感心しながら。
古典音楽についての造詣と、関連する郷愁にも同感を禁じえませんでした。
小説を読む楽しさというのは、こんなところにもあるものですね。
ところが一転、職場内の息苦しいよう状況変化。そして、新婚夫婦のおめでたの兆候。
この展開、悪く言えば、この遊びには、否応なく次回への楽しみを布石されるようです。
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