まもなく十二月に入ろうというのに、日中は汗ばむほどの好天気だった。
井原数馬は、タウン誌から依頼された五枚のエッセイを書き終えて、いつものように散歩に出かける準備をはじめた。
二階の書斎を出て部屋着を脱ぎ、隣室の洋服ダンスに吊るしてあるコーディロイのズボンに履き替えた。
上着は、やや濃い目の茶のブレザーで、統一した色調の中にも微妙に変化をつけたコーディネートを彼は気に入っていた。
夕方になれば、急に冷え込んでくるのが目に見えているので、赤のマフラーをネクタイ風に結び、グレーのソフト帽を浅めに被って、三和土に立った。
妻の淑子は、外孫の誕生に立ち会ってくたびれたらしく、仙台から帰って来るなり微熱を出して臥せっていた。
「おい、行ってくるぞ」
寝室の淑子に聞こえるように、大きな声を張り上げた。
「クルマに気をつけてくださいね」
「なに、公園を一回りしてくるだけだ。心配いるもんか」
向きを変えてドアノブに手をかけた数馬の背中に、淑子の細い声が追いすがった。
「このごろ、おとな狩りとかいって、あなたぐらいの老人も襲われてますからね。あまり寂しい場所へ行かないでください」
わかったよ、と返事をして、帰りに何か買ってくるかと問いかけた。
「寄り道しないで、早めに帰って・・」
自分の目の届かない出来事への惧ればかりが、言葉となって出る。
いつものことながら、数馬は目に見えない網を掛けられたような窮屈さを感じつつ家を出た。
玄関から小さな庭を通って道路に出ると、伸び放題に伸びた四季咲きの薔薇が、垣根越しに真紅の花を覗かせている。
よく見ると、薔薇の葉が下方に行くにつれて茶色に萎れ、ついには疎らになって棘だらけの枝が突き出している。
いつだったか、書店で園芸の本をめくっていたとき、薔薇は新芽がどんどん出て古枝は枯れていくので、こまめに剪定して取り除かなければならないと説明してあった。
手入れの悪さのほかに、アブラムシにやられた痕跡もあった。
数馬は、ときどき予防のために木酢液を噴霧したりしていたが、やはり農薬系のものでないと防ぎきれないらしい。
ふだんから、自然のままにのびのびとした庭木を好んでいたので、あまり注意を払っていなかったツケが出たようだ。
ふと、隣家の黄色い薔薇を見ると、艶やかな緑の葉が大ぶりの花の輝きを称えるように、下方から捧げ持っている。
公平に日の光を受けたバランスのよさが、一本の木の幸福度を示しているようで眩しかった。
それに比べ、数馬の管理下の薔薇だけが痛手をこうむっている。
「いかんな」
手入れに歴然たる差が出たことが、気に入らなかった。
「・・ちょいと一枝失敬して、技術の違いを勉強してやろうかい」
理屈にもならない理屈をこしらえて周囲を窺った瞬間、向かいのアパートから出てきた猫と目が合った。
その猫は、黒くしなやかな毛で全身を包み、目の周りと耳の一部、そして腹から足にかけて、くっきりとした白のまだら模様を散らしていた。
おそらく、親の一方は血統をたどれる血筋だろうと、数馬は推理する。夜這いをかけたもう一方の親が、ひそかに不倫の子を産み落とす。
(今度の子は、いい顔してるわよ)と喜ばれて、方々にもらわれていった。
猫と数馬とは、すでに顔なじみである。
しかし、これまでに言葉を交わしたことはなく、互いに相手の素性を探っているところがあり、その宙ぶらりんな関係が気になってはいた。
猫はずるそうに数馬の様子を窺い、顔を向けたまま遠回りに歩いて往く。
今日こそは何か声をかけられるかと期待しつつ、いやいや偏屈そうなジジイだから、いきなりステッキで殴りかかられるかもしれないと、警戒もしている。
伸びをするように背中をへこませ、コンクリートの路面をゆっくりと渡りきると、この日も何も起こらなかったことを確認して数馬から視線を外し、隣家の垣根をするりと潜って姿を消した。
(続く)
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