村野四郎
〈写真はウィキぺデイア〉より
村野 四郎(むらの しろう〉、1901年(明治34年)生まれ1975年(昭和50年)没。
日本詩人会会長。
東京北多摩郡多磨村に生まれた。
父、兄たちが、それぞれ俳句や短歌を作るという文学的環境に育った。
慶大理財科を卒業したが、詩への情熱は強く、1926年に第1詩集『罠』を刊行。
ドイツ近代詩の影響を受け、モダニストの立場を鮮明にした。
頭で考えるのではなく、実際の物に即して考えるという新即物主義にもとづいた『体操詩集』は、人間存在と社会と宇宙の関係をとらえた画期的な詩集。
戦後は独自の歩みをつづけ、「不在の神への近接」という実存的な詩境に達した。
1950年、東京都三鷹市に理研電解工業を設立し後に社長となる。〈実業家の顔も持つ〉
1960年には『亡羊記』で第11回読売文学賞を受賞、没後長男により四郎の生い立ちをまとめた『飢えた孔雀 父、村野四郎』(2000年)が刊行された。
詩人の草野心平は読売新聞の夕刊に発表した村野の追悼文の冒頭で次のように書いた。この文章は後に書き改められて、作品として詩集『全天』に収められている。
――病院のベッドに仰向けのまま、終始天井をぼんやり見ながら、また眼をつむりながら彼はその時よくしゃべった。私は遠耳なので彼の言葉はききとりにくく「通訳」をとおしてきいていたが、涙は眼じりから頬に流れ耳たぶのところでたまり、それがまた尾をひいて頸からパジャマのなかにまでもぐっていた。彼はその涙のすじを一度もぬぐおうとはせず、よくしゃべった。その時、できたばっかりの最後の詩集『芸術』がおいてあった。――
国語教材として取り上げられることの多い詩「鹿」。また合唱曲の作詞としては小中学校の卒業式の定番曲として知られる「巣立ちの歌」が有名である。ほかにドイツ語曲 "Biene"(SUMM SUMM SUMM)を日本語詞にした「ぶんぶんぶん」がよく知られている。
〈巣立ちの歌〉一部
- 『罠』曙光詩社(1926年)
- 『体操詩集』アオイ書房(1939年)日本図書センター 2004
- 『抒情飛行』高田書院(1942年)
- 『珊瑚の鞭』(1944年)
- 『故園の菫』みたみ出版(1945年)
- 『予感』草原書房(1948年)
- 『実在の岸辺』創元社(1952年)
- 『抽象の城』宝文館
- 『村野四郎詩集』東京創元社 ポエム・ライブラリイ 1958
- 『亡羊記』政治公論社『無限』編集部(1959年)
- 『村野四郎詩集』新潮文庫〈1961年〉
- 『蒼白な紀行』現代日本詩集 思潮社(1963年)
- 『村野四郎詩集』楠本健吉編 白鳳社 青春の詩集 1967
- 『村野四郎全詩集』筑摩書房(1968年)
- 『村野四郎 若い人のための現代詩』小海永ニ編著 社会思潮社現代教養文庫 1971
- 『村野四郎詩集』金井直編 弥生書房界の詩 1972
- 『村野四郎詩集』杉本春生編 旺文社文庫 1973
- 『芸術』(1974年)
- 『定本村野四郎全詩集』筑摩書房(1980年)
- 『日本の詩 村野四郎』平井照敏編 ほるぷ出版 1985
- 『村野四郎詩集』思潮社 現代詩文庫、1987
- 『村野四郎詩集 遠いこえ 近いこえ』扶川茂編 かど創房 1994
- 『詩人 村野四郎』府中市教育委員会監修 ネット武蔵野 2004
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