おれたちは靖国通りから逸れて、坂の道を新宿御苑方向へ登っていった。途中大きな交差点を渡り、人気の少ない裏通りに足を踏み入れていた。
中層のビルや医院、住宅、学校などが混在する街は、二つの大通りに挟まれてひっそりと静まっていた。街灯はあっても、建物に遮られて随所に影が生まれている。不穏な気配さえ感じられなくはない。
おれの腕にかかる重さが増していた。坂を登って来て、ミナコさんも疲れたのだろう。おれは、それを気遣ってミナコさんの顔を覗きこんだ。
ミナコさんも何か答えようとして、おれを見たようだ。わずかに後ろへ反った角度が、おれにそう思わせた。
重心が揺れていた。おれは腕をほどいて、ミナコさんの背中に手を回した。ウールのコート越しに、意外と厚みのある肉の感触が伝わってきた。
おれは、もう一度確かめるように真近の顔を見た。見返したとみたのは、錯覚だったようだ。目が閉じられ、睫毛が影をつくっていた。
わずかに開きかけたミナコさんの唇に向けて、おれの欲望が奔った。闇を銜えて閉じ合わなかった受け口の、その幻惑に唇を重ねた。ずっと欲しかった闇への扉をこじあけ、むさぼった。
どの時点で押し返されたのだろう。こじあけることに熱中していたおれの中に、ミナコさんが入ってきた。歯茎の裏から口蓋の隅々までまさぐられ、おれは未知の空間を浮遊した。こんなことがあるのだろうか。暴走する粘膜の感覚におのれを委ねながら、おれはおれの過去をなぞっていた。
幼い記憶が浮かんで流れた。高校時代の即物的な経験も、就職してからの不如意な体験も、合致しなかった指紋のように脳裏を通り過ぎた。
おれは、おれの中で暴れ狂うミナコさんを捕らえ、押し戻した。
微かに怒りがあったかもしれない。明確な感情になる前の矜持だったろうか。おれはミナコさんの顎をさらに仰向かせ、絡みつく舌を制して押し込んだ。
急におとなしくなったミナコさんが、愛しかった。おれの送り込む唾液に喉を鳴らし、おれの腕の中で弛緩した。
いくらも歩かないうちに、ホテルの表示灯が見えた。甲州街道寄りのあやしげな一郭だった。モルタル造りの二階家で、両隣のビルに挟まれて身を潜めているように見えた。
おれが立ち止まると、ミナコさんも足を停めた。塀を回した狭い入口の奥に、客を導く一握りの植え込みがあった。おれはミナコさんの髪に手を当てた。耳の上からうなじにかけて撫で下ろした。
びくっと反応したのは、何だったのだろう。夜気にさらされた髪の冷たさが、うなじに及んだのだろうか。おれは、肩を引き寄せ、おれの胸で押した。
言葉は要らなかった。わずかにためらう気配があって、だが、すぐにおれの胸にかかる力が消えた。おれはミナコさんの肩に手を置いたまま、笹竹の裏に回りこんだ。
入口の小窓で料金を払った。見えない位置でおれに札を渡すミナコさんが、いじらしかった。部屋の鍵が、それまでにない現実感を呼び戻した。夢見心地の思いが消えて、ルームナンバーを刻んだプラスチック板が掌のなかに残った。
おれは、初めて見る部屋の様相に身構えていたが、思いのほか普通のたたずまいにホッとしていた。回転ベッドや鏡張りの仕掛けなど、雑誌がもたらす情報はやはり特殊なものだった。郊外で目にするお城のようなホテルとは、まったく違うようだ。そうか、こんなものなのかと合点し、落ち着いた。
おれは、ダッフルコートを脱いだ。ミナコさんも深緑色のコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
待ち構えていたように、ミナコさんを引き寄せた。おれの欲望は持続したままだったし、ミナコさんも逆らわなかった。
力を抜いた肉体が、これほど重いものとは思いもしなかった。先刻のミナコさんは、身を任せつつなお立つ意志を残していたということになる。おれは半ば重さに負けて、ミナコさんをベッドに横たえた。
「暗くして・・」ミナコさんは、片手で顔を覆った。
おれは言われたとおりに明かりを消した。わずかに部屋の間接照明だけが残っていた。おれは横たわったままのミナコさんを見つめながら、シャツを脱いだ。ジーンズはもどかしかった。最後はかかとで踏んで引き抜いた。
膝をついて、にじり寄った。右手でミナコさんの腕をはずした。睫毛の先が揺れて、目蓋が薄く開けられた。下着姿になったおれを、どう見たのだろう。大きく息を吸うミナコさんの唇を、唇で封じた。
横たわらせたまま服を脱がせるのは、容易ではなかった。手こずるおれに、ミナコさんは体を浮かせて協力した。なにも言うな。おれは、なおも頭をかき抱きながら念じていた。
おれの手が開放された胸の起伏をなぞり始めると、ミナコさんは首を左右に振った。わずかに外れた口元から、かすれた声が漏れた。
「シャワーを・・」
「そんなの、いいよ」おれは気にもしないという態度で、ふたたび口を塞いだ。
後から思えば、大人げなかったと気付く。未熟なおれをどう受け止めたのか、いまさら知るすべもないが、おれの頭には一筋の流れだけがあり、それを追うことで精いっぱいだったのだ。
最後の下着に手を掛けたとき、ミナコさんが身をよじった。
「着けて・・」いつの間に用意していたのか、おれの手のなかにコンドームが押し込まれた。
一瞬、気持ちが退いていた。熱くたぎりかけていたものが、体のなかで萎もうとしていた。わずかに不安がよぎった。だが、おれにとっては却って好かったのかもしれない。流れを止められたことで、流されずに済んだのだから。もう一度作り直す時間を与えられたおれは、醒めた目でミナコさんを眺めた。
薄物を透して、三角の翳りが見えた。すぐには剥がずに、遠いところに意識を向けた。おれは、急に冷徹になった自分をいぶかしんだ。何かに挑もうとする心の動きが見えた。
(続く)
中層のビルや医院、住宅、学校などが混在する街は、二つの大通りに挟まれてひっそりと静まっていた。街灯はあっても、建物に遮られて随所に影が生まれている。不穏な気配さえ感じられなくはない。
おれの腕にかかる重さが増していた。坂を登って来て、ミナコさんも疲れたのだろう。おれは、それを気遣ってミナコさんの顔を覗きこんだ。
ミナコさんも何か答えようとして、おれを見たようだ。わずかに後ろへ反った角度が、おれにそう思わせた。
重心が揺れていた。おれは腕をほどいて、ミナコさんの背中に手を回した。ウールのコート越しに、意外と厚みのある肉の感触が伝わってきた。
おれは、もう一度確かめるように真近の顔を見た。見返したとみたのは、錯覚だったようだ。目が閉じられ、睫毛が影をつくっていた。
わずかに開きかけたミナコさんの唇に向けて、おれの欲望が奔った。闇を銜えて閉じ合わなかった受け口の、その幻惑に唇を重ねた。ずっと欲しかった闇への扉をこじあけ、むさぼった。
どの時点で押し返されたのだろう。こじあけることに熱中していたおれの中に、ミナコさんが入ってきた。歯茎の裏から口蓋の隅々までまさぐられ、おれは未知の空間を浮遊した。こんなことがあるのだろうか。暴走する粘膜の感覚におのれを委ねながら、おれはおれの過去をなぞっていた。
幼い記憶が浮かんで流れた。高校時代の即物的な経験も、就職してからの不如意な体験も、合致しなかった指紋のように脳裏を通り過ぎた。
おれは、おれの中で暴れ狂うミナコさんを捕らえ、押し戻した。
微かに怒りがあったかもしれない。明確な感情になる前の矜持だったろうか。おれはミナコさんの顎をさらに仰向かせ、絡みつく舌を制して押し込んだ。
急におとなしくなったミナコさんが、愛しかった。おれの送り込む唾液に喉を鳴らし、おれの腕の中で弛緩した。
いくらも歩かないうちに、ホテルの表示灯が見えた。甲州街道寄りのあやしげな一郭だった。モルタル造りの二階家で、両隣のビルに挟まれて身を潜めているように見えた。
おれが立ち止まると、ミナコさんも足を停めた。塀を回した狭い入口の奥に、客を導く一握りの植え込みがあった。おれはミナコさんの髪に手を当てた。耳の上からうなじにかけて撫で下ろした。
びくっと反応したのは、何だったのだろう。夜気にさらされた髪の冷たさが、うなじに及んだのだろうか。おれは、肩を引き寄せ、おれの胸で押した。
言葉は要らなかった。わずかにためらう気配があって、だが、すぐにおれの胸にかかる力が消えた。おれはミナコさんの肩に手を置いたまま、笹竹の裏に回りこんだ。
入口の小窓で料金を払った。見えない位置でおれに札を渡すミナコさんが、いじらしかった。部屋の鍵が、それまでにない現実感を呼び戻した。夢見心地の思いが消えて、ルームナンバーを刻んだプラスチック板が掌のなかに残った。
おれは、初めて見る部屋の様相に身構えていたが、思いのほか普通のたたずまいにホッとしていた。回転ベッドや鏡張りの仕掛けなど、雑誌がもたらす情報はやはり特殊なものだった。郊外で目にするお城のようなホテルとは、まったく違うようだ。そうか、こんなものなのかと合点し、落ち着いた。
おれは、ダッフルコートを脱いだ。ミナコさんも深緑色のコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
待ち構えていたように、ミナコさんを引き寄せた。おれの欲望は持続したままだったし、ミナコさんも逆らわなかった。
力を抜いた肉体が、これほど重いものとは思いもしなかった。先刻のミナコさんは、身を任せつつなお立つ意志を残していたということになる。おれは半ば重さに負けて、ミナコさんをベッドに横たえた。
「暗くして・・」ミナコさんは、片手で顔を覆った。
おれは言われたとおりに明かりを消した。わずかに部屋の間接照明だけが残っていた。おれは横たわったままのミナコさんを見つめながら、シャツを脱いだ。ジーンズはもどかしかった。最後はかかとで踏んで引き抜いた。
膝をついて、にじり寄った。右手でミナコさんの腕をはずした。睫毛の先が揺れて、目蓋が薄く開けられた。下着姿になったおれを、どう見たのだろう。大きく息を吸うミナコさんの唇を、唇で封じた。
横たわらせたまま服を脱がせるのは、容易ではなかった。手こずるおれに、ミナコさんは体を浮かせて協力した。なにも言うな。おれは、なおも頭をかき抱きながら念じていた。
おれの手が開放された胸の起伏をなぞり始めると、ミナコさんは首を左右に振った。わずかに外れた口元から、かすれた声が漏れた。
「シャワーを・・」
「そんなの、いいよ」おれは気にもしないという態度で、ふたたび口を塞いだ。
後から思えば、大人げなかったと気付く。未熟なおれをどう受け止めたのか、いまさら知るすべもないが、おれの頭には一筋の流れだけがあり、それを追うことで精いっぱいだったのだ。
最後の下着に手を掛けたとき、ミナコさんが身をよじった。
「着けて・・」いつの間に用意していたのか、おれの手のなかにコンドームが押し込まれた。
一瞬、気持ちが退いていた。熱くたぎりかけていたものが、体のなかで萎もうとしていた。わずかに不安がよぎった。だが、おれにとっては却って好かったのかもしれない。流れを止められたことで、流されずに済んだのだから。もう一度作り直す時間を与えられたおれは、醒めた目でミナコさんを眺めた。
薄物を透して、三角の翳りが見えた。すぐには剥がずに、遠いところに意識を向けた。おれは、急に冷徹になった自分をいぶかしんだ。何かに挑もうとする心の動きが見えた。
(続く)
これからどう物語の世界に引きずり込んでいただけるのか。ことによると窪庭さんの小説が大きな変わり目に来ていて、今作がその模索が始まっている証なのか、、、息を詰めるようにしてここまで読ませていただいてきました。
次回からを息を詰めるようにお待ちしています。
次回からも期待しております