どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

どうぶつ・ティータイム(129) 『雑感二題』

2011-06-14 07:10:43 | エッセイ
    蝉しぐれ


     「雑感二題」


 ○ 蝉しぐれ

  梅雨の晴れ間をぬって、森の家で2日間過ごした。

  5月に蒔いたインゲンがかなり伸びてきたので、支柱を立ててサポートをする時期がきた。

  篠竹や金属製のポールは大掛かりになるので、いつも簾をほぐして葦で代用している。

  それでも80本近くを畑に差し込んでいると、途中で腰が痛くなってきた。

  これはいかんと、背筋を反らして手を休める。

  気がつくと、畑の周りの森が蝉の声で埋め尽くされている。

  もうそんな季節なのかと、時の移り変わりの速さに驚かされる。

  間断なく沸き立つように、森全体が揺れる7,8月まであと少しだ。

  夏中ここで過ごした思い出がよみがえる。

  なんの気がかりもなく鳥や虫と遊べた記憶は、カプセルとなって頭の中心に残っている。

  自然の恩恵が、永遠につづくと思えた時期だったが・・・・。

  酔いしれているさなかに、蝉しぐれが急速にしぼんでいく。

  (なんだ?)

  期せずして合奏をやめた蝉たちの意図をいぶかしむ。

  空を見上げているうちに、答えは見つかった。

  一瞬翳った陽光がふたたび森を包んだとき、蝉しぐれはフォルテに転じた。

  そうか、指揮者は太陽だったのか。

  いまごろ知った事実に、ふーっとため息をつくのだった。


 ○ 50年前の俳句

  必要があって歳時記を検索していたら、一瞬ギョッとする事態に遭遇した。

  眼の端に、あり得ないものが映ったのである。

   <今朝の春白きものみな病む翳もつ 窪庭忠雄>

  恥ずかしさをこらえてその部分に目をやると、やはりそこに自分の名前があるではないか。

  (ええーッ)

  どうして、そんなことに・・・・。

  激しく頭をめぐらすと、50年前に所属していた「林苑」という結社のことがよみがえった。

  あのころは若気の至りで、実作もそこそこに現代俳句論みたいなものを書いたりしていた。

  角川の「俳句年鑑」とか、多少の痕跡がある関係で拾われたのか。

  それとも、時候俳句の季語を選んでいて例句が少ないものだから、下手な新人の作まで探ったのかもしれない。

  いずれにせよ、忘れていた身内に出逢ったような気分で、恥ずかしくも懐かしいひと時を味わった。

  

  話は変わるが、二十歳代にある書籍出版社に勤めたことがあって、その時の同僚に清水某という青年がいた。

  清水基吉というぼくの好きな俳人は、彼の叔父さんということですっかり盛り上がったものだった。

   <これからは引算ばかり年迎ふ 清水基吉>

  ぼくの尊敬する内田百先生の俳句も二句発見。

   <元朝の薄日黄ろき大路かな 内田百間>

   <元朝の薄曇なる庭の匂ひ 内田百間>

  やはり、青二才とは格がちがうのである。


    (おわり)



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2 コメント

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丑の戯言 (人生の一篇)
2011-06-16 21:28:06
筆者の奥ゆかしい一面を覗かされているような一篇。
長い時日と経験を通し、自分の過去が蘇ってくるような思索。
そこのところがなんとも奥ゆかしく読む者の胸に響いてきます。
そうして、もう蝉しぐれの時候になってきたんだなあと思い起こされます。


自分の歩んできた人生の一篇を静かに伝えてくるようでした。

老いてますますお元気に!
返信する
時間ってなんだろう? (窪庭忠男)
2011-06-17 21:36:43
(丑の戯言)さま、蝉の季節になると、4年も前の夏が懐かしく感じられます。
そして50年前のことも・・・・。
     
しきりに、時間ってなんだろうって考えています。
コメントありがとう。
返信する

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