どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(7)

2006-12-02 05:13:01 | 連載小説

 異変に気付いたのは、校門の前で撮った坊ちゃまのポートレートを眺めているときだった。
 ラシャ仕立ての制服と、同じ紺色の帽子を被った坊ちゃまが、誇らしげに胸を張るその肩口に、写るはずのない手が異物のように写りこんでいたのである。
 話にはよく聞くが、実際に自分の撮った写真にそれらしい現象を発見したのは、初めてのことだった。何者かが、思い余った勢いでつい手を出してしまったという気配が感じられた。
「奥様・・・・」
 モトコは、こころのなかで呟いた。産んで幾日も経たないうちに、わが子を引き離された奥様の無念が、なりふり構わぬ姿となって坊ちゃまの写真に写りこんだのだろう。
 こうなると、モトコは悩みながらも、従前の主張通りにはお屋敷を去ることができなくなった。
 ずるずると居座る形になるのは一番避けたかった。だが、なぜか、お前はお屋敷に残らなければならないと、頭の周りを覆う霧に似た物質に唆されている気がして、落ち着かなかった。
 入学式の日の写真は、坊ちゃまはもとより、他の誰にも見せることはなかった。発見した現象はモトコだけの胸のうちにしまって、写真は貴重品を納めた柳行李の底に隠した。
「いやあ、キミにはまた迷惑をかけてしまったな」
 旦那様は、奥様の遺影に線香をあげ終わると、同じように手を合わせるモトコの横に立って、しみじみと述懐した。「・・・・このままでは済まない。時期が来たら、恩に報いなくてはと思っている」
 モトコは、そのように言われることに、正直ひっかかりを感じていた。
 旦那様が高潔な人間であることは分かるのだが、立場に比して謙虚すぎるのではないかと、物足りなさを覚えることもあった。
「前にも申し上げましたが、わたしがこうしておりますのは、坊ちゃまを抛っておけないからです。いずれ、中学生になられましたら、わたしも心置きなくお屋敷を離れることができるかもしれません。あくまでも、わたしの内面の問題ですから、旦那様はお気遣いなさらないでください」
 最初こそ、モトコはタクシーで九段坂上の小学校までトシオを送ったりしていたが、まもなく電車を乗り継いでの通学に切り替えた。
 三ヶ月もすると、トシオはモトコの同行を嫌がるようになり、途中から独りで行けると強く言い張った。
 まったく目を離してしまうことは、モトコのほうが耐えられなかった。見送った振りをして隣の車両に乗り込み、人ごみに紛れてトシオの安全を目でサポートしたりした。
 毎日の送り迎えで疲れが重なったある昼下がり、梅雨明け直後の旺盛な太陽を避けて、縁先の籐椅子でうつらうつらしていると、半眼のモトコに築山の陰からひらひらと掌を振る動きが見えた。
 トウカエデの若木が、風に揺れて葉を翻しているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。日陰を選ぶように潜んでいるのは、白っぽい浴衣をまとった女の華奢な姿だった。
 いつの間に邸内に入ったのか。
 いつぞや黒板塀の外でモトコに微笑んだ女性が、地面に腰を下ろして人懐っこそうに手を振っている。
 ハナさんの見知った人ではないと判明したものの、モトコに向かって旧知の仲のように手を振るしぐさが、なんとも懐かしく感じられてモトコの方から庭に下りて行った。
「そんなところで、何をなさっているの?」
 返事はなく、ただ伏目がちに微笑むばかりである。「・・・・あなた、トシオさんのお母さまね。いつか、塀のところでお会いしたわよね」
 モトコの声は、頭蓋の縁に当たって、ウワーン、ウワーンと打ち消し合った。
 それでも、相手の女には通じているらしく、夢の中の出来事のようにあやふやなまま、了解されている様子が伝わってくる。
「坊ちゃまのことは、心配しないでください。わたしが、しっかりお守りしますからね」
 モトコは、わずかな緑陰に潜む女の姿に目を凝らしながら、なだめるように話し続けた。
 夏の太陽は、起伏に富んだ庭園のあらゆるところに降りそそぎ、木や石や草などそれぞれの物質に当たって跳ね返った。
 ちょうど、正面高く昇った白熱球が、お屋敷を俯瞰するようにギラギラ照りつける時刻だった。
 目をすぼめて眩しさに耐えていたモトコは、間もなく浴衣の輪郭が黒く反転してトウカエデに紛れるのを見た。白から黒へ、いとも簡単に変移した女の気配が、風のそよぎとなってひとしきり葉を揺らす。
 (また、来てもいいですよ)と、親密な感情を送って、白日の真っただ中で出会ったトシオの母親を労った。
 
 ひとたびチャンネルが同調すると、境界を越えて行き来するのは難しくもないようであった。相手を意識しすぎると、そこに至る入口を見失うが、心を許す関係になると、苦もなく通り抜けができるらしい。
 その後も、奥様の面影が、邸内にしばしば現れたのを、モトコは知っていた。
 夜など、大胆にもモトコの部屋に忍び込んで、坊ちゃまの寝顔を高い位置から眺めているのに気付いたこともあった。
 部屋に掲げられた扁額が、彼女の格好の拠りどころで、客が見上げる角度の突き当たりの位置に張り付いて、坊ちゃまを見下ろしていた。
 モトコは、奥様にますます加担し始めた自分を意識する。眠る間際には電燈を五燭に保って、トシオの寝姿を見やすいようにする。明るすぎても、暗すぎても変移しやすいもやもやの面影に、ころあいの光量を用意して長く留まれるようにしてやった。
 もとより、モトコにも熟睡の時はない。時間を超え、空間をさまよい、意識無意識の境を出入りして、夏の夜を転々としていた。
 ときには魘されて、トシオに揺り起こされることもある。ハッとして目覚めれば、夏掛け布団を蹴りだしていて、日頃とは逆に坊ちゃまに注意される有様だった。

   (続く)
 


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