もう十年も前のことだが、絵面吉男は伊豆半島の突端に近い白浜漁港の釣り宿に四人のグループで二夜滞在したことがある。
その折、近くにある公共の宿のスナックバーにみんなで繰り出したのだが、そこで出会った女主人の面影を突然思い出した。
使わなくなった腕時計や万年筆を放り込んである小引き出しを開けたとき、奥の方にピンク色の造花が張り付いているのを見つけたからだった。
その花は朝顔に似せて色紙を折ったらしく、折り紙の中心から放射状に襞を付け、ラッパの部分の花裂を丁寧に折り返して花柄の代わりに爪楊枝を刺したものだった。
細く切ったセロテープで補強した花の付け根が茶色に変色しているのが、過ぎ去った歳月を想い起させた。
(あの女主人は今ごろ何をしているだろう?)
別れ際に造花をくれたスナックのママも、今は五十歳になったはずである。普通なら生活環境も大きく変わったはずだが、案外公共施設に根を生やして朦朧と生きている気もした。
取り立てて美人だったというわけではない。
至れり尽くせりのサービスを受けたということもない。
四人が四人女主人と同じような会話を交わし、その場では女主人を話題に一様に盛り上がったのだが、日が経つにつれて記憶に上らせることが少なくなっていた。
「ねえ、わたしって暑がりなの。すぐに汗をかくんだけどどうしてかしら?」
五月の連休が終わったばかりのウィークデイのせいか、客は絵面たち四人以外誰もいなかった。
「えっ、今夜は別に暑くないよね・・・・」
歯科技工士の井沢が面白がる様子で反応した。
「そうなの、まだそんな季節じゃないのにブラウスがびしょびしょなの」
女主人が皆に背中をみせた。「・・・・ねえねえ、すごいでしょう?」
あまり見たくもないが、それぞれ強要されて女主人の背中を透かし見た。たしかに黒い布地に汗がにじみ出ている。
縦長の染みが背中を動かすたびに形を変えた。
ひとしきり汗かきについての話題で話が弾んだ。知り合いの編集者の脂汗や、多汗症で一日三回はシャワーを欠かせない女医について、それぞれが思いつくまましゃべりあった。
「そろそろカラオケ始めようや」
汗の話題に不承不承付き合ったものの、すっかり白けてしまった童顔の成宮がソファーに戻って水割りを口にした。老舗の和菓子屋の跡取りとあって、我が儘な性格が随所に現れていた。
「こうなったのは、いつ頃から?」
探究心の強い井沢がまだ食い下がっている。「・・・・季節に関係なく汗が出るのは、生まれつきの汗腺異常ということもあるし、思春期の心理的ショックによることもあるんだよ」
女主人がふっと井沢の顔をみつめた。いらついている仲間の一人を無視して、なおも自分に興味を示してくれる男に親しみを懐きながらも、容赦なく分析するカウンセラーのような態度に虞をなした様子だった。
「ママ、早く早く」
成宮が急きたてる。市役所に勤める控え目な性格の柳瀬が追随して、情勢が少し変わった。
やむなく女主人が腰を上げ、マイクとリモコンのセットをテーブルに用意した。「・・・・本はそこにあるわ」
積み重ねた分厚いインデックスを指差して、水のコップと灰皿を運んできた。
早くも自分のリクエスト曲を探すのに夢中の成宮は、女主人をめぐる話題などすっかり忘れ去っていた。
坐り位置の関係から、ときどき女主人がソファーの端に腰を下ろす。
井沢の横しか空いていないのでそこに坐るのは当然だが、もう一つのソファーに坐っていた絵面も女主人を挟むように話に加わった。
「いつ頃からそうなったの」
井沢がまだ追及している。
絵面は汗のことより井沢のこだわりの方に興味をひかれて、女主人の横顔を見守った。
カラオケのディスプレーにはテレサ・テンが映し出されている。これぞ歌姫と呼びたくなる清純な映像だ。
その間、流れている演奏と字幕は『愛人』である。成宮の裏声まじりの歌真似で変態的な画面が出来上がっている。
「わたし、いま四十歳なの・・・・」
いきなり女主人が年齢を口にした。無頓着なのか、それとも自信があるのか、女性にありがちなごまかしの気配がまったく感じられなかった。
「へえ」井沢が息を漏らした。
「二十六歳のとき船乗りと結婚して、横浜で四年暮らしたわ。すごく幸せだったんだけど、夫の乗った船が四国沖で時化に出合って船体が真っ二つに割れてしまったの。夫ともう一人が運悪く海に放り出されて遭難。とても考えられないことだけど、三角波の力って想像を絶するほどの破壊力を発揮するんですって・・・・」
女主人が声をひそめて、当時のことを思い巡らす様子を示した。
「三十歳で未亡人か。で、その後は・・・・」
この日に至る十年の空白を一気に吐き出させるように、話し上手の井沢が水を向けた。
・・・・生命保険や船会社からの補償でしばらく生活するには困らなかった。
しかし、若い女がいつまでも亡き夫を偲んでいるわけにはいかない。まとまった資金があるうちに将来の生活基盤を築いておこうと、下田に小さな店を借りてスナックを開店した。
店の名は『SOS』。ユニークな命名が目立ったこともあるが、未亡人ママの若さが男たちを呼び寄せたのだろう、狭い止まり木からいっぱいになって二つあるボックス席も相席になるほどの人気だった。
フェリーや漁船の乗組員、それに駅前商店街の店主などが主な客で、もともとの同業マダムから妬まれるほどの繁盛振りだった。
人が靡くのは若さや色気のせいばかりではない。近くの漁港から揚がる旬の魚の料理と、蓮台寺からおばあさんが売りに来る野菜で作る煮物、漬物が好評で、二年ほどは順風満帆の商売が続いた。
だが、好事魔が多し。小金を貯めて心に隙が生じたのか、客として何度か通ってきた太平洋航路の客船に所属するマドロスさんにほれ込み、さんざん貢いだ末に逃げられた。
「そんなに好い男だったの?」
井沢が確かめる。
「・・・・というより、白い制服に惚れたのね。肩章がすてきだったの」
ママがうっすらと笑う。
本音なのか、はぐらかしか、痛手を蒙ったというわりにはどこか楽しんでいるような雰囲気があった。
「えっ、そんなの嘘だろう。・・・・どうも変だよ」
穏やかだが正攻法の追及にあって、ママの腰が落ち着かなくなった。
「わたし、踊りたくなっちゃった。誰か踊って・・・・」
近くにいた絵面の肩に手を置く。いわば瞬時の消去法による指名に与って、絵面がニヤリと立ち上がった。
カラオケボックスとは違って店の入口までフロア続きだから、ダンスのできるスペースは通路を中心にけっこうあった。
「ねえ、わたしの話おかしい?」
女主人が絵面に訊く。
「制服に弱いなんて、ずいぶん乙女チックだね」
「そうなの。惚れやすいのよね。でも、信用してくれる?」
絵面は心もちママを引き寄せた。信用するよと答えたつもりだった。背中に回した掌が気になったが、汗のべたつきは感じられなかった。
「オーイ、水割り一杯。おかわり!」
成宮がじれている。
催促された女主人が絵面の手の中から上手に体を解いて、火照った肌の感触を残していった。
「ありがとう。明日も来てね・・・・」
離れ際に如才なく声をかけられて、絵面の心中が揺らいだ。
「ママも唄ったら?」
井沢が水を向けた。
「わたし下手だから唄ったことがないのよ」
「ここに上手い奴なんかいないんだから、遠慮することないさ。はい、選んで。・・・・それで、誰か好きな歌い手がいるの?」
「そうね、松山恵子かなあ」
まんまと誘導されている。
絵面は女あしらいの巧みな井沢の話術に、自分も乗せられている気がした。
女主人は、商売柄たちまちリクエスト曲を入力して席を立った。
成宮と柳瀬の面倒をみて席に戻ると、ちょうどリクエスト曲が画面に映し出された。
『だから言ったじゃないの』・・・・かなり初期のヒット曲だ。
イントロが流れ、女主人がマイクを持って唄いはじめた。
絵面はソファーに坐ったまま身を反らし、横に立って唄うママを見上げた。本人が申告したとおり上手な歌ではなかった。
それでも、少し前屈みになって唄い出しのセリフを言い、伴奏を追いかける。画面に向かって前のめりに傾く姿勢が真剣みを感じさせた。
「港の酒場に飲みに来る・・・・」
テロップの文字をたどりながら、お恵ちゃんの歌詞に自分を重ねる様子が可愛らしい。
(分かりやすい女だなあ)との思いはあった。
こういう女性は男に軽く見られるだろうと自分の心中を慮りながら、剥き出しの踵から脹脛、太腿、臀部、背中、首筋まで眺め上げた。
先刻まで自分の手の中にあった肉体が未知のものではないと思うだけで、理不尽な所有欲を刺激するのだからずうずうしいものだと感じていた。
「ヨウッ、お恵ちゃん!」
絵面は後ろめたさを誤魔化すように囃したてた。
サービスのつもりか女主人は成宮と踊り、続いて柳瀬も引っ張り出してサンダルでステップを踏んだ。
長身の柳瀬の歩幅についていく白い踵が、火影に出入りして扇情的に見えた。
二時間ほど唄ったころ、絵面は空腹を覚えた。釣り宿の夕食で刺身主体の魚料理をたっぷり食べたはずのだが、肉と違って消化が早いのか冷酒の刺激を受けて腹がググッと音を立てた。
「お腹すいたね。何か頼もうか」
井沢が笑いかけた。「・・・・浅蜊スパゲッティーなんかできるかな?」
「できるわよ」
聞きつけた女主人が顔を上げた。
「いいなあ。おれも頼むわ」
「ぼくも・・・・」
成宮と柳瀬が相次いで声をあげた。
ガーリックの効いた硬めの麺に缶詰のアサリがよく絡んでいた。こんな時間に殻付きの貝を要求する野暮もいないから、ありあわせの野菜と炒めて手早く作ったのが成功だった。
「いやあ、旨いよ。ママの料理は前の店でも評判だったんだろうね」
井沢が褒めるのに皆が同調した。
「前の店って?」
話を聞いていなかった成宮が疑問を口にした。
「小さなお店。SOSというスナックだったんだけど、潰れちゃったのよ」
誰かが駄洒落を言いそうに思ったが、それぞれ言葉を飲み込んでいた。
「その当時からママさんの腕は確かだったんだよ」
井沢が解説した。料理のことを褒めたのだろうと絵面は思った。
「お店潰したんだから、ダメなのよねえ」
女主人は別のことを思い出したのか、急に元気をなくしたように見えた。
いきなり風向きが変わったことで、井沢が慌てたように声をかけた。「ねえ、今度はママとディエットしたいな」
行きずりの釣り客を相手に、船員物語を創って楽しませていたのかとも思えたのが、なにやら痛みのもとに触れてしまった狼狽が感じられた。「・・・・ほら、桂銀淑の北空港。あれを一緒に唄ってよ」
背中の汗といい、悲恋とも呼べない男遍歴といい、ふらふらと揺れながら心を露わにする女主人に絵面も戸惑いを感じていた。
井沢に肩を抱かれてディエットする女の後ろ姿が無防備に見えた。もしかしたら目でも悪いのか、画面に向かって前傾していく姿勢が筋肉の緊張をあらわにして痛々しかった。
ゆったりと男に身を委ねて生きてこられなかった運命が、体の随所に現れているように絵面の目には映った。
井沢が女主人の肩の辺りを指で弾き、リズムをとりながら男のパートを懸命に唄っている。この曲の作曲者であり元歌手でもあった浜圭介の心情が、女主人の危なっかしい生き方に寄り添って慰めているように感じられた。
(演歌も悪くないな・・・・)
ほんとうは演歌は素晴らしいと言いたいところなのだが、絵面のなかに多少照れくささがあって身を引こうとするのだ。
好い齢をして、カラオケ大好き、演歌大好きとはなかなか宣言できないものである。女房に知られようものなら、「あんたってミーハーね」とか「バカじゃないの」とか軽蔑されるのが落ちである。
絵面はディエットに熱中するふたりの背後で、情感こめて唱和していた。どちらのパートというわけではなく、フルコーラスを唄いつくして女主人の頼りなさ、井沢の優しさに涙にも似た共感を飲み下したのだった。
翌朝は釣り船に乗るというのに、深夜十二時までスナックバーで過ごした。
乗合船の出発時刻にこだわって、酔っ払いに帰還を促したのは柳瀬だった。柳瀬がいなければ、女主人ともどもソファーで沈没しかねないありさまだった。
白浜の最盛期はやはり八月の夏休みである。背後から一気に迫る緑の雪崩を受け止めて、ふところ広い湾の中に白砂の浜と停泊する船影とたくさんの若者を抱え込むのだ。
だから彼ら中年男たちが感傷に耽るには、少し時期外れのこうした季節が好い。まして人気の少ない福祉施設のスナックなど、一向四名様にはピッタリだった。
釣り宿の女将が女主人と知り合いで、その紹介で繰り出したという経緯もあり門限はあまり気にすることはなかった。
だが、乗合船に運ばれて岩場に取り付くにはけっこう体調を整えておく必要があった。
それなのに早々と酒と歌に溺れたのだから、釣果はおのずと知れていた。
日が傾く前に引き上げて風呂を浴び、民宿心づくしの食事を摂った。
暮れていく青い海と島影がガラス越しに見えた。そのまま額縁に入った絵のようだった。
ビール瓶を五、六本倒したところで、成宮から今夜は下田まで遠征してみようとの意見が出た。
他の者もそれはいいやと賛成した。正確には、返事を曖昧にしていた絵面を除いての話だったのだが・・・・。
「いいね。だけどおれ昨日のスナックに忘れ物しちゃったんで、あそこに寄って捜してもらってから行くよ。店の名前が分かったら携帯に電話してよ」
絵面はさりげなく成宮に頼んだ。
「うん」
生返事で応じたのは、すっきりと計画が進まなかったことへの不満があったからだ。「・・・・タクシーは一台しか予約しないけどいいのかな?」
自分が中心の企画をはぐらされたことで、頭の中の段取りを示しておかなければ治まらない気持ちになったようだった。
「悪いな。地元のタクシーさえ拾えば市内の飲み屋ぐらいすぐに分かるさ」
絵面も自分の思惑を説明して、行動の不自然さを押し隠そうとした。
「うん、それじゃ先に下田に行ってるよ」
他の三人がタクシーを待っている間に、絵面は一足早く民宿を出た。一刻も早く忘れ物を回収して、成宮たちに合流する意思を示したつもりだった。
石畳の坂を登りきって海岸通り出ると、夕暮れの湾内に大小の船がシルエットとなって舫っていた。一方、船からは男たちが対岸の山容を眺め、緑の中の別荘の灯りに別の想いをめぐらせているのかもしれなかった。
山と海からの拮抗する視線のただ中に絵面は居た。二百メートルほど下田寄りに歩いた山裾にスナックバーのある公共の宿があった。
以前は公務員の保養施設だったらしいが、一般客にも開放するようにとの方針が示されてそれなりに利用されてきた。
しかし建物のリニューアルが遅れがちで、そのうえ当初の料金設定が変わらないことから割高感がつのり、次第に客離れが進んでいるようであった。
公共の宿には珍しいスナックバーが設けられているのには、さまざまな理由があるのだろうが、集客の手段として知恵を絞った支配人の意向が反映されているのかもしれなかった。
フロントには昨夜のうちに面通ししておいたから、今夕も咎めなくスナックに直行できた。地元で民宿を営む女将からの電話は効果絶大で、客の少ない時期ということもあって愛想よく迎えられたのだった。
「こんばんは・・・・」
色ガラスに似せたフイルムを貼り付けたドアを押すと、厨房から女主人の声が返ってきた。
「いらっしゃいませ」
どの客か分からないまま、とりあえず丁重に迎える明るい返事だった。
「あら、絵面さん。来てくれたのね」
予期していなかったのか表情が輝いていた。「・・・・ほかの皆さんは?」
「うん、もっと遅くなってくるかもしれない。ぼくはママとの約束だから、まずここへ来なくちゃあと思ってね」
一瞬笑顔が止まったのは、絵面がいう約束の意味を吟味する間かもしれなかった。
「いやだあ、なに約束したのかしら。でも来てくれてうれしいわ。皆さん見えるまでゆっくりしていてね」
女主人は絵面に注文の瓶ビールを用意すると、作りかけのイカサラダを完成すべく厨房に戻っていった。
「はい、出来上がり。少し召し上がってみない?」
「へえ、旨そうだな」
事実、肉厚のイカをボイルして胡瓜と和えた小鉢はビールによく合った。
「夕ご飯、おいしかったでしょう?」
民宿の女将が用意する豊富な魚介類に比べて、自分の作るささやかな料理を謙遜する気配があった。
「うん、旨かったけど生ものが多いからね。でも、何気ないけどこのサラダ絶品だわ。ほどよい油が食欲そそるなあ」
心から褒めているのが分かって、女主人の表情が緩んだ。
一人だけでやってきた男をそれとなくいぶかしんでいた当初の緊張が、絵面の勧めるワインで次第にほぐれた様子だった。
安いワインしか置いてないのよ、と女主人は言った。
絵面がママも何か飲みなよと、好きなアルコールの種類を訊いたときだった。「わたしの体にはワインが合っているんですって。新陳代謝が活発すぎるから、穏やかに吸収する種類のものが良いらしいの」
この夜も泊り客は少ないようであった。
連休明けにぽっかりと休暇の取れる公務員が数組利用しているだけで、一般客はそれぞれの仕事にあわただしく立ち戻って行った様子だった。
その意味では、設立当初の保養目的に適った福祉施設の貌を現したといってもよかった。
絵面はフロントの前を通るとき、エレベーターにひっそりと乗り込む若い夫婦を見かけたが、部屋に用意の浴衣を着て晩い食事か風呂から戻っていく気配に、自分を省みて肩をすくめる思いを味わった。
(真面目そうだなあ)
この分では、カラオケどころか、いったん部屋に収まったらテレビを観るかぼそぼそと会話を交わすかして、すぐに眠りに就きそうな気がした。
「誰も来ないね」
「シーズンオフはこんなものよ」
女主人がうっすらと笑った。「・・・・だから、いつもこんなものを作っているの」
浅い菓子箱を持ってきて、絵面に蓋を開けて見せた。
覗くまでもなく、箱の中にピンク色の紙の花がぎっしりと詰まっていた。どれも同じサイズの千代紙を使った折り紙細工で、中心に爪楊枝を刺し、花の付け根でプチンと折りセロテープで補強した朝顔に似た形状の造花だった。
「この楊枝はどんな意味?」
絵面が疑問を口にした。
「意味なんてないわ。お客さんにあげて、どこかに挿してくれたらいいなと思うだけ・・・・」
店の壁にダーツの的が掛かっていて、その真下に立てかけられた発泡スチロール板にプチプチとピンクの花が咲いていた。
「なんだか裕次郎のこぼれ花みたいだね」
野バラに似ているわけでもないのに、理由もなくそう思った。
「つまんない?」
「いや、でも花ってどこか寂しいよね・・・・」絵面がふと本音を口にした。
女主人の目の縁に一瞬睫毛の影が落ちた。
「わたしの背中には、カモメが飛んでいるのよ」
絵面は、女主人が海の男との過去を鴎になぞらえたのだろうと推察した。最初の結婚生活を海難事故で奪われた悲しみが、足取りの定まらない生き方につながっているような気がした。
「カモメかあ。今でもご主人のこと忘れられないんだね」
「・・・・」
女主人が絵面を上目遣いに見上げた。「あなた、背中みてみる?」
入口のドアに近いテーブルから立ち上がって、カラオケのディスプレーの陰に絵面を誘導した。
「ジッパーを下ろしてみて・・・・」
後ろを向いた女主人がくぐもった声で指示した。
絵面は息をつめ、躊躇の後に襟首のホックを外し、そろそろとジッパーを下ろした。
「見えた?」
「いや・・・・」
紫のキャミソールに汗が染みていた。「・・・・汗の形がカモメのようになるんですか」
絵面はあからさまに誘われているのを意識して、手が震えた。
「違うのよ。もっと左の下・・・・まだ見えない?」
ジッパーが背骨をなぞるように下りきった時、臀部の片側に薄青い痣のようなタトゥーが現れた。
「ほんとだ。カモメが飛んでいる・・・・」
二つの翼を広げて海原を舞う一羽のカモメが、脂ののった尻の上側に刻印されていた。海に生き女に生きた男の執念が立ち昇っていた。絵面の欲情が上にも下にも行けず、立ち往生していた。
「もう、上げて」
言われなければ、勇を鼓して背後から抱きついていたかもしれない。女主人がその気になっているなら、振り向かせて彼女に応えてやるのが礼儀だとも考えていたのだ。
「オーイ、絵面くん来てるかい・・・・」
ドアを開ける音に続いて、下田に行ったはずの三人が入ってきた。「おや、そんな暗いところで何してるの」
冗談めかしているが、間接照明の下さっと離れた人影の動きに、井沢の目は気づいたのかもしれなかった。
「いやあ、大事な腕時計を失くしちゃってね。もしかしたらこの辺で落としたかもしれないと思って、隅の方を捜してもらっていたんだ」
「あったの?」
「いや、でも勘違いかもしれない。宿に戻ったらもう一度バッグの中を捜してみるよ」
絵面は動揺を悟られないように、質問を返した。「・・・・それより下田へは行かなかったの?」
「うん、運転手さんに訊いたら港町はけっこう料金が高いらしいんだ。それで、急遽ここへとんぼ返りしたってわけよ。まあ美人のママさんもいることだし、灯台下暗しと気づいたんでね・・・・」
井沢が引き返した理由を説明した。
「まあ、こっちもお騒がせしちゃったけど、たぶん結果オーライになるんじゃないかな・・・・」
沸騰した欲望の熱りを鎮めながら、その場の収拾がついたので絵面もホッとした表情を見せた。
その後しばらくの間、絵面は再び機会を作ってスナックバーを訪れるべきかどうか思い悩んだが、何事もないまま今日に至っている。
記念にもらったピンクの花を見るたびに胸を熱くしたものの、踏み出す勇気が持てずに、いつからかその造花を引き出しの奥に仕舞いこんでいた。
自分の意気地なさを嫌悪する気持ちもあったが、女の白い肌にカモメを彫りこんだ船乗りの気迫に圧倒されたというのが真相に近いかもしれない。
鴎が飛ぶ白浜漁港の景観にプチリと造花を留め、いつかまた思い出の引出しから懐かしくひっぱり出す日がくるのだろうと溜息をついた。
(完)
最新の画像[もっと見る]
- ポエム390 『茗荷のリボンが僕を呼ぶ』 5ヶ月前
- ポエム389 『朝顔抄』 5ヶ月前
- ポエム388『オクラ』 6ヶ月前
- ポエム386 『かぼちゃ野郎』 6ヶ月前
- ポエム385 『ジャガイモのフルコース』 6ヶ月前
- ポエム382 『黄色い百合』 7ヶ月前
- どうぶつ番外物語トピックス1 『アライグマ』 9ヶ月前
- どうぶつ番外物語トピックス1 『アライグマ』 9ヶ月前
- 茗荷の収穫 1年前
- 茗荷の収穫 1年前
親しい仲間との旅の一夜の思い出。
背中にかもめのタトーのママと一瞬の接点。
でも何か起りそうで何も起らなかった。
それはそれでいいけれど、主人公の心に何の傷も痕跡も残さなかったようなのは、小説としてはどうでしょうか。
読む側としては申し訳ないですが、どうしても何かを期待するんですよね。
出来事としては何も起らないにしても、引っかき傷のようなものでもいいからチリリとした痛みか何かを。
彼の人生か考え方に何かの痕跡を残した瞬間としてその一夜が描かれていたとしたら、満足感が得られるような気がするのですが、、、。
例えばその瞬間主人公が、今何もかにもうまくいっている妻とでは考えられない、危険な裸の男と女の獣の触れ合いを妄想するとか、、、。
はっははは。俺が考えることは下劣だね。でもな、男にはそんな不埒な欲望がむくむくと頭をもたげる一瞬もあるんだよねー。
日常から解放された心に空いた隙間にね。
この小説もそうした瞬間をソフトに描こうとしたのかもしれませんが、もうひとつ危険な水位まで突っ込んでもらいたかったねー。
やっぱり面白い小説を読みたいものね。
欲張りすぎでしょうか。
不良の知恵熱おやじ
思わず一気に読ませていただき、読み終わって「フーッ」と溜息が出ました。
なぜなら、まずはロケーション。下田界隈の白浜、外浦、須崎には小生、なんべんも通い詰めていたからです。そこいらのたたずまいや景色が瞼に浮かんできました。とりわけて白浜から眺める海の素晴らしさ。その眺望にもう少し踏み込んで書いてくれたら……。
がさついような男四人の仲間。それに少し距離を置いてシナをつくるママさん。そこにそれぞれの人間模様が次第に明らかになっていく。そして、何かが起こりそうで何も起きない。その、サラッとした書き方は高等技術ですね。物足らなさを感じさせながら、甘酸っぱい余韻を残してくれて……。
作者の文章力にはかねがね感心していますが、今編ではとくに文体の流麗さが際立っているように感じられました。こうして力を抜いて物語をさりげなく展開させていくのは、容易ではないでしょう。
次なる意外な創作を心待ちしています。
行きずりの男たちとの情交にその夜を託す(わかりやすい)女の性と生。
私が絵面ならジッパーを下ろす手をそのまま女の臀部まで伸ばし、カモメを指でなぞりついでに前面に這わせて茂みの中の敏感な部分に触ります。何が起こらなくても、ここまで書いて男女双方が持つ危うさに迫ります。
踏みとどまっても、そのほうがインパクトが強いし、ドラマティック。後日、再訪の強い誘惑に駆られた心理を告白する絵面を描いてもいいし・・・・。
けれど「背中のカモメのタトゥー」の発想だけでもエロティックで、実に秀逸。私なりに堪能させていただきました。(M・KO氏より)