さて東京から訪ねるにはものすごく遠かった万次郎の資料館に入ります。歩いて
来る奴はまずいなさそうだが、広い駐車場に車も止まってないぞw
資料館はとってもきれい。ただ展示物はあまり多くないなあ。
まずは万次郎と漁師仲間が漂流してたどりついた小笠原諸島の離れ小島にいた
アホウドリのはく製。のちにその良質の羽根のために乱獲して絶滅しかかった鳥です。
岩場があるだけの小さな島なので、まず水がなく、わずかに溜まった雨水を分け合って
飲んだそうです。食料は海草をかじるとかしかない。当初たくさんいたアホウドリは、
人間を恐れなかったので手で捕まえられましたが、火をおこせないので生かじりw
それも旅立つ季節になったらみ~んな飛び立っていなくなり、まさに絶望的状況。
よくもまあ何か月も生き延びられたな!
そこでこの米国捕鯨船のジョン・ハウランド号が通りかかって九死に一生を得たの
です。よくもまあ太平洋の真ん中を漂流して島にたどりつき、さらに救出された
ものです。
こちらは万次郎が米国で船乗りの学校を卒業したあとに乗った捕鯨船フランクリン号。
当時はろうそくや機械油として利用するために米国は世界中の海でくじらを乱獲
したのです。皮下脂肪を削り取ったら、あとはみんな捨ててたんだぞwww
万次郎が書いたアルファベットの掛け軸。万次郎はもともと利発だったことと、
まだ子供だったから言葉の吸収が早かったのでしょうね。
天と地、日、月、土地、川、海、そして風 だってさ^^
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が
派遣される際に使われた幕府の軍艦。軍艦奉行・木村摂津守喜毅と軍艦操練教授方
頭取出役の勝海舟がみっともない主導権争いをしていました。こんな船で「船長」
がいないってのは致命的でしょう。
しかしどちらも遠洋航海をしたことがない。嵐で海が荒れたとき、このメンツ争いを
していた日本人のトップ連中は全く働かないで船室で寝たきり。船酔いで「帰る!」
なんて騒いでいるとき、万次郎は不眠不休でサポートに入っていた米国人船員と
一緒に働いたそうです。
そして帰ってきたときには、その使えないお偉方さんたちは「日本人だけで太平洋を
横断した」と威張ったそうです。しかし後日、サポートの米国船船長の日記が公開
されて実態がバレたとか。「武士」とか「面子」とかいう人たちって。。。
万次郎がゴールドラッシュのカリフォルニアに行ったとき、当時の人たちはこんな
格好をしていたんだよ、という展示^^;
そのカリフォルニアの川を行き来する船はこんな蒸気船だったとか。こういう船の
模型は力作でした。ただ万次郎ゆかりの品々はそんなになかったなーw
万次郎を救ったホイットフィールド船長と晩年の万次郎。帰国してから開国期の幕府で
働いて刀を持つようになった万次郎が、大人になって船長を訪ねたときには大変な驚きと
感動だったことでしょう。
土佐でくじらを捕っていたときの様子。
土佐清水に戻るバスは2~3時間に1本。まだ少し時間があったので、資料館を出て
展望台らしきところに行ってみた。
登って見ると海が見えました。
万次郎はものすごく視力がよくて、誰にも見えないはるか水平線のかなたにでも
「くじらがいるぞ!」と見えたそうです。私の目は日々本を読んだりPC画面を見たり
しているのですっかり悪くなりました。。。
さあて帰りましょうかー。
このバス停でしばらく待つ。グーグルマップを見ると、バスがどのあたりを走って
いるか表示されます。次のバスが「3分遅れ」なんて出て、まだだいぶ向こうを
走っていてバス停3つくらい先だなあ、と思っていました。便利になったものです。
座っていて「近くになったら外に立たないとな」とふと道路を見たら、バスが
目の前を通過!!! うわっと飛び出したら過ぎて行って、その後ろから手を
振ったら、止まってくれました~~~( ;∀;)
時計を見たら、ぴったり時刻表通り。よくまあふと外を見たもんだ。よくまあバスが
止まってくれたもんだ。その次は3時間後だよ!!! グーグルマップのバスの現在地、
今後は信じないぞ。もし幸運の総量が決まっていたら、相当使ったぞ、こりゃー。
四万十からバスで南下して土佐清水へ向かいます。
四万十川は河口に近づくと広い広い。
いよいよ四国の南端に近づきます。
下ノ加江川。
土佐清水の清水プラザバルバス停前。前回はここで乗り換えて足摺岬へ行きました。
今回はここからすぐのジョン万次郎資料館に行くのが目的です。今宵はここに宿を
とることになっていますが、本数の少ないバスが10分後に出るので、荷物を預ける
暇もなく資料館に向かいます。
2時間に1本しかないバスに乗って資料館前に到着しました。たしか7分くらい
だったか。でも歩くと30分では着かない。天気が良ければそのくらい歩いちゃうん
ですが、荷物を持ってるからなあ。日差しも強くて30度近くあるぞこりゃ。
屋根と椅子があるバス停で人もいないので(そりゃ~2時間に1本のバスがいま
行っちゃったんだからなあ)、ここで昼食。
何せ土佐清水ではバスの待ち合わせが10分。ここには食堂なんてな~んにもないから、
朝バスに乗る前におにぎりを1個買っておいたのです。イカ唐揚げキムチ入りだって。
そしてジョン万次郎資料館にやってきました。手前の広場には立派な像がある。
万次郎の生涯が簡単に書かれていました。私は万次郎の生涯に関心があって、伝記
などを読んでいます。中濱家の子孫は代々、万次郎の伝記をかくのが使命になって
いるようで、私の書棚には中濱東一郎、明、博、武彦さんと4代に渡って執筆された
伝記が並んでいます。それぞれあとでわかった新事実が書かれていたり、万次郎が
住んでいたアメリカ東海岸の町を訪ねて万次郎を知っていた人たちに会った報告
などがあったりして代々興味深く読ませてもらいました。
それと山本一力が小説仕立てにした「ジョン・マン」も楽しく読んでいるのですが、
そっちは途中で止まってるぞ! 一力さん、困るんですけど!!!
それにしてもこの銅像はなかなか立派だぞ。一番先頭にいるのはもちろん万次郎。
それと船の仲間たち4人。この5人はこのあたりから漁に出て、嵐に遭って漂流し、
黒潮に乗って小笠原諸島の小さな無人島に漂着したところから大冒険が始まるのです。
字も読めなかった万次郎が船乗り見習いとして海に出たのがまだ14歳。無人島で
数ヵ月生き延びたところでアメリカの捕鯨船に救出され、ハワイに行き、その船長に
誘われてアメリカ東海岸の自宅に住まわせてもらい、学校に行き、船乗りの学校を
優秀な成績で卒業し、捕鯨船に乗り、一等航海士にまでなります。
23歳でゴールドラッシュのカリフォルニアに行って見事に金を掘り当て、帰国の
資金を得ます。そして24歳で日本に帰国するわけですが、厳しい鎖国政策だった
もんだからなかなか苦労する。しかしなんとか許されて25歳で故郷のおっ母さんと
涙の再会♪
その後開国をせまるペリーがやってきたもんだから、幕府に呼ばれて通訳として活躍。
あちこちで英語を教えたり航海術を教えたり忙しい日々を送り、33歳のときには
咸臨丸に乗って勝海舟らと一緒に日米修好通商条約調印のための派遣に参加。
まさに波乱と感動の生涯なのです。とてもこんなダイジェストでは語りきれません。
さあて資料館には何が展示されているのだろう?
佐田沈下橋のほとりには屋形船の船着き場があります。あれに乗って川で獲れた
魚を食べられるとか。舟が好きなお母ちゃんが生きていたら乗せてあげたいけれど。
さて町に戻りましょう。思ったよりスムースに行ってこられました。
自転車なのでテキトーに下流のほうに向かっていたらどんづまりw でも自転車
だからスイっと戻れるので緊張感なし。これもいい^^;
自転車の返却時間まで1時間ほど余ったので、中村城址にある四万十市郷土博物館に
立ち寄ることにしました。ここに登ってくるのはすごい急坂だったぞー。でも
電動アシスト♪ この建物は新しく建てたものだな。
エレベーターで上がれました。町が見渡せます。
殿様だとこんな景色を眺める(民を見下ろす)立場になるわけですな。
あれは四万十川と並行する後川。
四万十川は森の向こう側だ。
下階は資料館。うなぎに関する展示がありました。まずは捕まえる道具。
うなぎって、はるかマリアナ諸島あたりで生まれてはるばる日本にやってくるのかあ。
そして川を上ってくる。それを蒲焼に。。。俺が浜名湖や諏訪湖で食べた連中も
南洋出身の方々だったんですね。
「郷土博物館」ってほどのものじゃなかったような。。。自転車でスイっと寄った
けれど、これがもし町から1時間もかけて歩いてきて、最後にヒーコラ山登りを
してたらちとガッカリもんだったなw
自転車を返しに行く。この家、入り口は・・・?
さあて自転車を降りて、駅前にあった喫茶店でコフヒー。自宅だと朝昼夜と豆を
挽いて愛飲していますが、旅先ではペットボトルの水ばかり(あとは夜の酒)だから、
東京にはほとんどなくなったゆっくりできる喫茶店が嬉しい。
そして夜の酒は、中村で評判の「季節料理たにぐち」さんへ。
最初に「今日はビリカツオが入っていますよ!」と勧められる。聞いてみると、
獲ってから3時間以内だって。市場のセリを通さずに船から直接飲食店に持ってくる
超新鮮な鰹のことをそう言うそうです。調べてみると、「まだ死後硬直する前」ってw
こちら四万十でもなかなかないそうです。もちっと舌触りが良い。高知で鰹を食べた
ときに美味い!と思ったものですが、それの上を行く、いままでにない美味しさ
でした。たまたまこの日にこの店に来て食べられるなんて、幸運です。
これは「ごり」という四万十川で獲れる小魚。酒のアテにいい~♪
土佐の酒で一番好きな司牡丹があったのも嬉しい^^
少食な私ですが、四万十に来たからには、そして昼間に郷土資料館でうなぎに関する
展示も見たので、うな重だぁ~! 天然ものだから?東京の料理法と違うから?
身は少し固めに感じました。たまにはこんな贅沢も♪
こちらはさらに上流に行ったところの三里沈下橋。さっきのより少し細いね。
ここまで来るのには少々山道を上り下りしました。観光案内所の職員さんは
「ここを超えるのは大変ですよ」と言いましたが、「電動アシストがあれば
上りも大丈夫でしょう?」と言っても、「それでも前のお客さんは大変な思いを
したと疲れ切った様子で帰ってきたこともありますよ」と忠告。
俺は別に鍛えているわけでもないし体力に自信があるわけでもない酒飲みですが、
佐田岬のときも美瑛のときも、「それはちょっと・・・」と心配されても全然
余裕で乗り越えてきた経験があるので、今回も迷わずやってきました。そして
あっという間に到着しましたよ?
さて自転車を置いて渡ってみましょう。はじっこを歩くとちとコワイ^^;
山の緑が川面に映ってきれいですぅ~。
こんな景色をひとりじめとはなんと贅沢。
さっき少し降った雨もあがってラッキーです。
向こう側に渡り終えて振り返るとこんな感じ。増水して橋が沈むところも見てみたい
気がするが。。。
ううむ、絵になるよねえ^^
こっち側からも。
反対側から戻る道路は閉鎖中なので、戻るw
山道も電動アシストで楽々。これでヒーコラする人がいたのか?
最初の佐田沈下橋に戻ってきました。真ん中に鳥さんがいるよ。
ほら。少々遠いけれど、俺の姿を見て警戒していました。
そして飛んでっちゃったw
渡ってきた赤鉄橋をあとにして、四万十川を上流に向かって自転車を漕ぐ。
最初の川沿いの道はこんな感じ。少し上流で工事をしているらしく、何度もでっかい
トラックが通り過ぎて行きました。北海道の青い池に向かったときのように、道は
とっても快適ですが自転車で行く人は全然見ません。全くの貸し切りみたいだ。
自転車だと速くて実に快適。いつもは先の見えない長い直線をとぼとぼと歩いて
いるからなあ~。風を受けて走ると気持ちが良すぎて鼻歌が出るぞ。
右側には四万十川。
山道に入るとこんな風景。路肩にガードレールがないので観光案内所の人が
「山側を走って下さい」と注意してくれました。
走りながら撮影したのでブレてます^^;
ここは途中にあった展望台がある休憩所。だいぶ来たのでひと休み。その瞬間、
雨が少し強く降ってきました。恐ろしいほどにタイミングがいい。屋根の下に
座ったら降ってきたんですよ。まあこの自転車に乗る日に雨が降るんだから運が
いいとも言えないが、雨をよけるところがな~んにもないところを走ってきて、
偶然休憩所があったところで降り出すなんてw
10分ほどで雨は止んだのでまた出発^^ 座ってたら蚊に刺されました。都会の
マンションでは蚊がいないので、とっても久しぶり。そういえばコンクリート
ジャングルでは蚊も蠅も、ゴキブリもいなくなってるからなあ。ついでにハト、
カラス、スズメさえも見なくなって久しい。それってどうよ?
最初の沈下橋に到着しましたー。案外あっさり着いたぞ。さすが電動アシスト自転車。
これは佐田沈下橋と言います。
正式には「潜水橋」って言うとか? 「必ず自転車を降りて歩いて下さい」と
言われてました。転落事故があるのでしょう。「生活道路ですから車が来ることが
あります。譲ってはじっこに立って下さい」と言われましたが、滅多に行き交う
こともなさそう。
大雨で川が氾濫したときに沈むのです。水を遮らないから洪水が起きても崩落する
可能性は低いし、もし崩落しても修理は簡単、安く済む。いいことづくめですが、
人が転落する危険は増しますね。知り合いの女性にこの画像を見せたら「私は
恐くて渡れないかもw」なんて言っていました。そしたら「俺が手をつないでて
あげるよ♪」なんて言えるし、女性のほうも恐くなくたって「コワイ~♪」なんて
フリも出来るからいいことづくめじゃん(^益^)b
ま、氾濫してないときは穏やかな川です。
渡った向こう側から見たら橋桁が青い。上流に向かっていくつも沈下橋がありますが、
みんなそれぞれ違う雰囲気なんだって。
しかしこれが水没する程に川が氾濫するって、どんだけ虫が死んじゃうことだろう。
だからそれが流れてくる河口には魚が集まるのね。それを獲って酒場の刺身盛り合わせ
ができるのね。刺身には酒を合わせるので、俺みたいのが毎晩酒を飲むとーw