NHKの連続ドラマ「花子とアン」で、「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子さんの生涯が描かれています。私もむかし「アン」を村岡訳で読みました。そして「世界名作劇場」シリーズのアニメも楽しみました。
村岡訳ではマシュウとマリラの姓が「クスバートさん」になっているのに、アニメでは「カスバートさん」になっていました。原作の”Cuthbert”は、一般的に「カスバート」のほうが英語の発音に近いようです。このように原作を読んでみると、少しいろいろなことに気がつきました。アンがマシュウやダイアナに使った、村岡訳で「腹心の友」という印象的な言葉は、英語では”a kindred spirit”という単語です。「同類の心を持つ人」という感じですね。「同じ感性を持ち、心で理解し合える同志」というような意味ですから、同世代の同性であるダイアナだけではなく、年齢も性別も違うマシュウにも当てはめられる単語なのです。「腹心の友」はちと古い言葉になってしまいましたが、アニメでは「心の友」となっていて、そのほうが現代的な言葉ですが、アンがマシュウに使うには日本語としては微妙かも。それに「心の友」は、ジャイアンがのび太に使ったりするしなぁ~^^; ”a kindred spirit”なんて凝った表現は、小さい子供が使うから面白いんですよ。
さて村岡花子訳と原作を比べると、一部の人たちには既に有名になっていることがあります。それは村岡花子訳にはかなりの省略があったことです。多くの日本人は、新潮文庫版の「赤毛のアン」(本来タイトルは「グリーンゲイブルスのアン」なんですが)を読んできたはずです。しかしそれが省略版だったとは、これいかに。
省略されているのは主に物語の終盤。クイーン学院に行ってからや、マシュウが死んだあと、マリラがアンに涙ながらの告白をするところなどはごっそり抜けています。これはもう「抄訳」ではなく、「要約」だという人もいます。しかしアニメでは省略されていません。ウィキペディアを見たら、原書に忠実な完訳であった神山妙子訳を使ったそうですね。高畑勲・宮崎駿コンビ、ポピュラーな村岡訳を使わなくてよかったですねェ。ちなみに高畑は「アンの心情が理解できない」と言い、宮崎は「アンは嫌いだ」と言ったそうですが。
しかし村岡さんは、なんでまた大事なところで(?)こんな大幅なカットをしたのか?私は最後のほうだから、「紙面の都合」だと思いました。「文庫本としての厚さ」だとか、「売れ筋になるための長さ」といった、販売上の問題で出版社からの要請があったのではないかと思ったのです。俺がもしそう言われたら、途中のあまり面白くない章をまとめて省略しちゃうけどなあ。
さてこの省略については諸説あるようです。「子供向けだから短くした」とか、しまいには「村岡さんがマリラのイメージを自分流にしたかったから」などと言い出す人もいます。いやさすがにそこまではないでしょう。
その話をシンチョー社の友人にしたら、村岡訳は省略版だと聞いて、さすがに驚いていました。そしたらしばらくして、「2008年に完全版が出ているぞ」と持ってきてくれました。これはまた聞きだから確実な情報ではありませんが、「赤毛のアン」の翻訳を出版したときは戦後の紙が不足していた時代で、全訳をするとページ数が多くなって値段も高くなってしまうから、省略をしてページ数を抑えてくれ、と言われたとか。最初の出版は1952年の三笠書房です。戦後7年でそんなに紙は高価だったのか?
村岡花子さんは灯火管制のもとで翻訳をし、終戦の頃に訳を終えたとか。そのときはどうやらちゃんと全部訳してあったらしいのです。
2008年の新潮文庫完全版の最後に、「改訂にあたって」というあとがきがあります。村岡花子の姪っ子の娘さん、村岡美枝さんが「いくぶん訂正を加え」、「補訳をした」と書いてあります。この短い説明だけじゃあ真相はわかりません。補訳をしたというなら、今回足されている花子さん訳で省略されていた部分は、美枝さんの訳ということになりますでしょ。花子さんの全訳原稿はあったのか?それが今回復活したんじゃないの?なぜちゃんと説明しないのかな?
というわけでNHKの連ドラに期待したい。戦後「アン」を出版する際に、三笠書房からページ数を少なくするように要請され、葛藤ののちに(?)せっかく訳した原稿を心ならずも省略せざるを得なかったエピソードを、是非描いてくれないかなあ。