千里山駅から西へレッチワース・ロードを登ると、第1噴水のロータリーがあります。ベンチに囲まれた噴水に対するように「千里山開発記念碑」が建っています。
千里山は大正10年の北大阪電鉄による千里山開通と、大阪住宅経営株式会社による「理想の郊外型田園都市」の開発とを両輪として、好景気にわく大正時代の新たな中産階級の生活スタイルを実現すべく計画された住宅地です。
千里山住宅地の販売パンフレットである「千里山住宅地平面図」によりますと、電気・炊事用や暖炉用ガス設備・上下水道完備という当時に於いては先進的なインフラを持ち、ロビー撞球設備などを備えた会館やテニスコートなども設置されていました。
しかし営利会社でありながら、株主に対する配当率を社会的事業であるとの理由により制限するなど、公共性の高い住宅経営の面が強く、また住宅供給の量的緩和ということよりも、振興サラリーマン層の理想生活を実現するという目的を掲げ、実際の経営状態は必ずしも良くありませんでした。
碑文には会社の解散と合併を前にして、会社の存在意義や実績への自負と、理想主義の脆弱さへの一抹の無念さが表れているようです。
千里山は大正10年の北大阪電鉄による千里山開通と、大阪住宅経営株式会社による「理想の郊外型田園都市」の開発とを両輪として、好景気にわく大正時代の新たな中産階級の生活スタイルを実現すべく計画された住宅地です。
千里山住宅地の販売パンフレットである「千里山住宅地平面図」によりますと、電気・炊事用や暖炉用ガス設備・上下水道完備という当時に於いては先進的なインフラを持ち、ロビー撞球設備などを備えた会館やテニスコートなども設置されていました。
しかし営利会社でありながら、株主に対する配当率を社会的事業であるとの理由により制限するなど、公共性の高い住宅経営の面が強く、また住宅供給の量的緩和ということよりも、振興サラリーマン層の理想生活を実現するという目的を掲げ、実際の経営状態は必ずしも良くありませんでした。
碑文には会社の解散と合併を前にして、会社の存在意義や実績への自負と、理想主義の脆弱さへの一抹の無念さが表れているようです。
千里山住宅地ノ開発ハ大正九年三月当社創立ニ依テ計画サレ爾来約八箇年間ニ於テ土工区域約十六萬坪住宅建設約四百戸ヲ算ス今回新京阪鐵道株式会社ニ事業ヲ合併シテ会社ヲ解散シタルニ付記念トシテ此碑ヲ立ツ
昭和三年十一月 大阪住宅経営株式会社