朝井閑右衛門の初期の大作『丘の上』(昭和11年・文部大臣賞/500号)を横須賀美術館で拝観。
中央には一角獣(ユニコーン)の被りものをした若い男が若く成熟した女に何か言っている(向かっている)。胸や足からは鍛えられた筋肉が伺える男は自分より大きな(精神的に大きく見える)女に告白しているのかもしれない。豊満な胸、細く締まったウェスト、女はポーズや着衣から推して、ボッチチェルリの『春/プリマベール』や『ヴィーナスの誕生』を髣髴とさせる。(類稀な美女の意であり、名画を借りることで、一角獣の伝説神話を思い起こさせるための条件でもあったのだと思う)しかし、肩の逞しさ身体の大きさは女の魅惑(誘惑)の大きさであり、彼女自身の自信(傲慢)をも表現している。男は鍛えられた肉体を有しているようだけれど、年令は不肖である。(推定では、うら若き青年以上、熟年以下の表現)
女は男の愛を受け入れるかのポーズであるが、果たしてその足はあちら(違う方向)を向いている。つまり心は裏腹、女の身勝手わがままに翻弄される生真面目(潔癖)な男の滑稽。背後の浮かれたように踊る女は、この女の精神の具現化(実は嬉しくてたまらないといった)とも思える。足腰も弱った老女が男を求めているが男の眼中にはない。(いずれ女もそうなる宿命であるのだという暗示、必然的な未来である)。
画面の女の堂々たる風格の前で、圧倒されているのか小さめに描かれた男は明かに女の魅惑に少し足を広げ告白している(ように見える)。
背後には水瓶(一角獣の角には毒で汚された水を清める力があるとされている)、豊かな果物、ヴァイオリン、太鼓、笛のBGMは高鳴る胸の鼓動を暗示している。
丘の上・・・なぜ「丘の上」だったのか。室内という限られた空間ではなく、見渡すことのできる広々とした空間を舞台にした愛の劇場だったからである。任意の点である丘という選択は、天空・地平の果てまでをも想起しうる。憧憬たる西欧への傾倒、すなわち世界への窓口である。
手をひろげ、男に歩み寄り受け入れるかのポーズの女、しかしその足は「いいえ、お受けできません」と答えを出している。(そのためか、男は冷静かつ固まっているような姿勢)
男の悲恋が一角獣の仮面の素顔だろうか。泣いているのか笑っているのか仮面の下の表情は不明である。
そして、こうも考えられないだろうか。
女の方が男を誘っているが、一角獣(ユニコーン)は、処女の懐に抱かれ大人になるという神話を持つ架空の生き物である。「あなたにその資格はない」とばかり、男はNOを突きつけた。女はうろたえ、老女は困惑し、そして後ろにいる分身らしき女は「Oh,no!・・・」と、天を仰いでいるのだとも・・・。否、老嬢は「わたしこそ永遠の処女だ」と主張しているのかもしれない。
左下に描かれた豊穣な果物に成熟はあるが、永遠はない。時間とともに腐敗していく宿命である、果物のみならず登場人物はすべて・・・。
ほぼ等身大に描かれた登場人物の一人に感情移入してこの作品に入っていくのも一興。(500号という大きさはこのためにこそ必要不可欠、必然性があったのだと思う)
楽曲を奏でる男たちもそれぞれの状況に合わせ、心的リズムを変化させているに違いない。ピカソの道化に類した風体、本心を隠しておどけてみせるピエロ・・・人生における悲哀がそこにある。
一つの形態は必ずしも一つの状態を現しているとは限らない。例えば、うつむいて泣いているポーズは、可笑しさを堪えているのかもしれないのである。現象の二面性・・・作品の大きな画面(500号)には大きなテーマが隠されている。
鳴り響く楽曲とともに見えてくる人生の悲喜劇。男の自負が音もなく崩れ去る瞬間(あるいは処女願望による不敵)を見事に描いた大作、人生とはこんなものだという自嘲・・・情熱と冷静の間を、スパイス(皮肉)の効いた精神で表現し得た朝井閑右衛門。若き日の集大成であり、作家の原点とも思える振幅の大きな深い作品である。
ボッチチェルリやピカソを想起させる人物像・・・影響というより、一角獣をより鮮明にする演出の必要十分条件だったのである。そして「世界を舞台に愛の普遍性を描いた」という自負を感じる。
《名作であることは間違いない》
(写真は切り抜きで小さすぎるかもしれない)
中央には一角獣(ユニコーン)の被りものをした若い男が若く成熟した女に何か言っている(向かっている)。胸や足からは鍛えられた筋肉が伺える男は自分より大きな(精神的に大きく見える)女に告白しているのかもしれない。豊満な胸、細く締まったウェスト、女はポーズや着衣から推して、ボッチチェルリの『春/プリマベール』や『ヴィーナスの誕生』を髣髴とさせる。(類稀な美女の意であり、名画を借りることで、一角獣の伝説神話を思い起こさせるための条件でもあったのだと思う)しかし、肩の逞しさ身体の大きさは女の魅惑(誘惑)の大きさであり、彼女自身の自信(傲慢)をも表現している。男は鍛えられた肉体を有しているようだけれど、年令は不肖である。(推定では、うら若き青年以上、熟年以下の表現)
女は男の愛を受け入れるかのポーズであるが、果たしてその足はあちら(違う方向)を向いている。つまり心は裏腹、女の身勝手わがままに翻弄される生真面目(潔癖)な男の滑稽。背後の浮かれたように踊る女は、この女の精神の具現化(実は嬉しくてたまらないといった)とも思える。足腰も弱った老女が男を求めているが男の眼中にはない。(いずれ女もそうなる宿命であるのだという暗示、必然的な未来である)。
画面の女の堂々たる風格の前で、圧倒されているのか小さめに描かれた男は明かに女の魅惑に少し足を広げ告白している(ように見える)。
背後には水瓶(一角獣の角には毒で汚された水を清める力があるとされている)、豊かな果物、ヴァイオリン、太鼓、笛のBGMは高鳴る胸の鼓動を暗示している。
丘の上・・・なぜ「丘の上」だったのか。室内という限られた空間ではなく、見渡すことのできる広々とした空間を舞台にした愛の劇場だったからである。任意の点である丘という選択は、天空・地平の果てまでをも想起しうる。憧憬たる西欧への傾倒、すなわち世界への窓口である。
手をひろげ、男に歩み寄り受け入れるかのポーズの女、しかしその足は「いいえ、お受けできません」と答えを出している。(そのためか、男は冷静かつ固まっているような姿勢)
男の悲恋が一角獣の仮面の素顔だろうか。泣いているのか笑っているのか仮面の下の表情は不明である。
そして、こうも考えられないだろうか。
女の方が男を誘っているが、一角獣(ユニコーン)は、処女の懐に抱かれ大人になるという神話を持つ架空の生き物である。「あなたにその資格はない」とばかり、男はNOを突きつけた。女はうろたえ、老女は困惑し、そして後ろにいる分身らしき女は「Oh,no!・・・」と、天を仰いでいるのだとも・・・。否、老嬢は「わたしこそ永遠の処女だ」と主張しているのかもしれない。
左下に描かれた豊穣な果物に成熟はあるが、永遠はない。時間とともに腐敗していく宿命である、果物のみならず登場人物はすべて・・・。
ほぼ等身大に描かれた登場人物の一人に感情移入してこの作品に入っていくのも一興。(500号という大きさはこのためにこそ必要不可欠、必然性があったのだと思う)
楽曲を奏でる男たちもそれぞれの状況に合わせ、心的リズムを変化させているに違いない。ピカソの道化に類した風体、本心を隠しておどけてみせるピエロ・・・人生における悲哀がそこにある。
一つの形態は必ずしも一つの状態を現しているとは限らない。例えば、うつむいて泣いているポーズは、可笑しさを堪えているのかもしれないのである。現象の二面性・・・作品の大きな画面(500号)には大きなテーマが隠されている。
鳴り響く楽曲とともに見えてくる人生の悲喜劇。男の自負が音もなく崩れ去る瞬間(あるいは処女願望による不敵)を見事に描いた大作、人生とはこんなものだという自嘲・・・情熱と冷静の間を、スパイス(皮肉)の効いた精神で表現し得た朝井閑右衛門。若き日の集大成であり、作家の原点とも思える振幅の大きな深い作品である。
ボッチチェルリやピカソを想起させる人物像・・・影響というより、一角獣をより鮮明にする演出の必要十分条件だったのである。そして「世界を舞台に愛の普遍性を描いた」という自負を感じる。
《名作であることは間違いない》
(写真は切り抜きで小さすぎるかもしれない)