県立近代美術館 葉山の屋上と庭園内のあずまや付近に設置された二つの像「Tw0 Times」
一つは屋上(高く人の手の及ばないところの設定)、一つは海岸付近。
天空を仰ぎ、地の底へ沈み込むようなイメージ(企画)である。屋上の人体像は山(東)を向き、海岸付近の像は海(西)を向いている。作家自身を模った人体像は、わたくしであり、人類である。
つまりは世界との媒体である人体像は裸身であり、像自体に意味を与えるものではない。むき出しの有機物質である人体を無機質なものに便宜上置き換えて設置しているというわけである。
二つの時空は一つを意味しており、更に言えば地球をも包含している。(メッセージはそう聞こえるが、現実には制約がある)
設置された像は美的感覚をもつ象徴ではない。ただ人が存在しているという普遍性の任意の一点なのである。だからある意味、ここにはこの人体の増殖を仮想できる余地がある。二つというより無限をも内包した二つなのである。
作品には飛躍があるので、その注解は非常に沢山の解釈が必要になる。しかし作品は黙して立つばかりであるから沈思のうちにそれを聞き取らねばならない。
作家は端的な表現手段としての人体模型を任意の場所に設置しながら、場所の条件との接点が普遍性を持つように苦慮している。
どのような形態がその場所(時空間)との答えを見出せるかを究極つきつめている。天地、海山、(恵みと災害をもたらす)自然、地球と太陽、宇宙の茫漠・・・作品は常に答えを求めている。
(一度行けばそれで終わりの鑑賞・・・今回二回目の美術館行き・・・改めて感じることが多く、「通う」ことの意義を痛感)
一つは屋上(高く人の手の及ばないところの設定)、一つは海岸付近。
天空を仰ぎ、地の底へ沈み込むようなイメージ(企画)である。屋上の人体像は山(東)を向き、海岸付近の像は海(西)を向いている。作家自身を模った人体像は、わたくしであり、人類である。
つまりは世界との媒体である人体像は裸身であり、像自体に意味を与えるものではない。むき出しの有機物質である人体を無機質なものに便宜上置き換えて設置しているというわけである。
二つの時空は一つを意味しており、更に言えば地球をも包含している。(メッセージはそう聞こえるが、現実には制約がある)
設置された像は美的感覚をもつ象徴ではない。ただ人が存在しているという普遍性の任意の一点なのである。だからある意味、ここにはこの人体の増殖を仮想できる余地がある。二つというより無限をも内包した二つなのである。
作品には飛躍があるので、その注解は非常に沢山の解釈が必要になる。しかし作品は黙して立つばかりであるから沈思のうちにそれを聞き取らねばならない。
作家は端的な表現手段としての人体模型を任意の場所に設置しながら、場所の条件との接点が普遍性を持つように苦慮している。
どのような形態がその場所(時空間)との答えを見出せるかを究極つきつめている。天地、海山、(恵みと災害をもたらす)自然、地球と太陽、宇宙の茫漠・・・作品は常に答えを求めている。
(一度行けばそれで終わりの鑑賞・・・今回二回目の美術館行き・・・改めて感じることが多く、「通う」ことの意義を痛感)