続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

自分を生きる。

2013-05-04 06:37:05 | 日常
 世の中には様々な人が居て、自分はその中でどうだろうと考えてみると、かなり恥ずかしい部類だと自覚している。

 容姿にはまるで自信がないし、それ以上に心持ちにも欠けた所がある。さらに加齢からくる老いの影は遠慮知らずの暴挙でわたしをいたぶっている。補うべき経済の余裕もなく死ぬまでの計算はどうにか間に合う・・・否、危ないものがある。

 頭脳のほうも際立つことのなかった履歴・・・。

 こうして思い返してみても、列記すべき華がない。


 ただ、がっかりしてばかりでは自分が可哀想だし惨めである。大いなる欠点を、大いなる長所に変換させる逆転の発想。これはわたしを救うのではないか。
 欠点は欠点として認めよう・・・《だからどうした!》という居直りにも似た腹の据え方が大事かもしれない。中傷誹謗欠点の指摘を受けて立とうじゃないかという覚悟。それをバネにエネルギー源としての蓄えならちょっとしたものがある。(死ぬまでに使い切れないかもしれない)

 これで行こう、たとえ虚勢としか見られなくても、残りの人生は仇を討つような迫力で元気よく虚勢を盾に胸を張って生きて行く。


 その辺りをよぼよぼ足を引きずって歩いているお婆さんを侮ってはいけません。心の中は覚悟して凛々しくありたいという願いでいっぱいなのです。その健気に気づいたら、労わって下さいね。

『セロ弾きのゴーシュ』77。

2013-05-04 06:27:50 | 宮沢賢治
 ゴーシュはぼんやりしてしばらくゆふべのこはれたガラスからはひってくる風を吸ってゐましたが、町へ出て行くまで睡って元気をとり戻さうと急いでねどこへもぐり込みました。

 町はチョウと読んで、丁。丁は十干の第四→《die、死》より死を暗示していると思う。

☆普く朽(古くなってダメになる)死を推しはかる談(話)を遂げるために、幻(目に見えない)の鬼(死者)の霊を究(つきつめる)己(わたくし)である。

『城』1261。

2013-05-04 06:07:14 | カフカ覚書
 Kは、フリーダがどこかへ片づけたにちがいない櫛をさがしながら、「なんですって。調書ですと。あとになってから、わたしのいないときに調書をこしらえるーそれも会談の場に居もしなかった人間が作成するのですか。

 フリーダ/Frieda→Frieda/平和。
 櫛/Kamm→Kahn/小舟。

☆Kはフリーダ(平和)がどこかに片づけたにちがいない小舟をさがしながら「記録ですって」わたしの不在なときに、あとになってから誰かがこしらえたーそれもわたしに相談なしに誰が作成したのですか。