続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

片岡球子の眼。

2013-05-07 06:17:39 | 美術ノート
 作品の第一印象は言わずと知れた『存在感の確かさ』である。

 平面という条件をありのまま平面として受け止め、平面であるが故の描法を取り、むしろ平面であることを誇示しているかに見える作品群。
 しかし平面である静けさは、鑑賞者がその作品の前に立った途端打ち破られてしまうのは、暴挙とも思える精神の闘いが垣間見えるからである。

 たとえば《面構えシリーズ》を描くにも、必要十分条件を最小限に絞込み、対象者の精神を色彩の妙(この色という限定)を決定付け、形(構図)においても究極このバランスという線を凝視模索している。
 ここでは色形は言葉なのである、内実の具現化を激しく探求した結果、世間で言われている知識としての情報をも消化しているが単なる戯画(漫画チック)とは一線を隠している。それは威風堂々の大らかさと、彩色や形体の綿密な計算と考証が作品世界を作り出しているからに違いない。片岡球子の世界観(見解)である。

《海(鳴門)》の沈着冷静な静かな祈りの姿には争乱の影はない。栄華を収めた平家、落城に消えた武士たちへの鎮魂、それらの交錯が自然という波に呑み込まれていく運命の定めを幼子の無邪気を手前に描き悲哀を留めている。深く胸に刻まざるをえない歴史秘話の哀れを那須与一の矢をも暗示。(源平共に船端を叩いての賞賛・・・教師だった彼女は外せなかったのだと思う)
 波は尖らず丸い、しかし迫力がないとはいえない静かなる猛威、海底の暗澹・・・常ならずの歴史の歪みに消えた二つの魂は、永遠の教訓でもある。

《火山(浅間山)》脅威を抱えた麓の軒を寄せ合った家々の静けさと生命力の象徴たる稲の穂、その上に自然のダイナミックな激動を内包している火山(浅間山)を、片岡球子は彼女特有の色彩の解釈によって描いている。あり得ないような色の隣接が生み出すエネルギーは暴力的で激しい。重く圧し掛かる日常への脅威は、祈りとしての対峙を生んでいる。
 この画面に流れる空気は、自然への畏敬の念であり、生きるということはこの大いなる驚異との共存との競合である。

 この圧倒的な迫力、エネルギーを感じることのできた神奈川県立近代美術館・鎌倉の『片岡球子 創造の秘密』展は、アートテラーさんのツアーでの拝観。吉兆庵美術館、鎌倉国宝館など、一日がかりの面白ツアー。ありがとうございました。

『セロ弾きのゴーシュ』80。

2013-05-07 06:03:02 | 宮沢賢治
すると戸のすきまからはひって来たのは一ぴきの野ねずみでした。そして大へんちひさなこどもをつれてちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。そのまた野ねずみのこどもと来たらまるでけしごむくらゐしかないのでゴーシュはおもはずわらひました。

 戸はコと読んで、顧。
 来たはライと読んで、頼。
 一ぴきはイツと読んで、逸。
 野ねずみはヤと読んで、也。
 大へんはダイと読んで、題。
 前はゼンと読んで、全。
 歩いてはフと読んで、腑。
 野ねずみはノと読んで、の。
 来たらはキと読んで、鬼。 

☆顧(振り返り見る)に頼ることを逸(隠している)也。
 題(テーマ)の全(すべて)は腑(心の中)の鬼(死者)である。

『城』1264。

2013-05-07 05:54:22 | カフカ覚書
 ベッドの中にまぎれこんでいた櫛をやっと見つけだしたKは、まえよりも落着いた口調で、「どうぞご勝手に。で、そのことを知らせにきてくださったのですか」

 ベッド/Bett→Wett/(ある人とは)縁が切れている。貸し借りなしである。
 櫛/Kamm→Kamf/戦闘。

☆縁が切れている苦しみである戦闘を発見したKは静かに言った。「それはあるかもしれない」そのことを言及しにきたのですか。