続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

繰り返される日常。

2013-05-28 06:21:09 | 日常
 gooサービスにより、一年前の記事を再び目にすることができる。

 それを読むと、つくづく・・・同じ日常が繰り返されていることに気づかされる。地層見学(自然観察会)は去年と二日しかずれていないし、第一撮った写真がほぼ同じ、そして多くは同じメンバー。
 昨今の状況が去年と重なるのである。

 365日、春夏秋冬・・・同じような感想の記述があるのを読むと、自分は何かの周りをぐるぐる彷徨しているに過ぎないのではないか、という気がしてくる。

 明らかな事は、一年が経ち、一才年を重ねたという事実だけではないか・・・成長or衰退?

 年をとれば情報量も増え、賢くなるという前向きな図式は描けない。忘却量が記憶量をはるかに超え、むしろ何かぼんやりした感想を抱くだけなので、去年のことはまったく念頭になく、gooサービスによる《一年前のわたしの記事》を目の当たりにして絶句してしまうのである。

 同じ日常の繰り返し・・・。破綻なく、一年を乗り越えたことに感謝すべきかもしれない。
 
 
 今日は観音崎(自然観察)に公民館(コミュニティセンター)のイベントで行く。
(来年は何らかの事情により行かれないかもしれない)そうした危惧が、わたしを急きたてる。いつか必ず来るXデイに向かい、まるで火口を巡るような面持ちで歩いている。(もう少し・・・と、つぶやきながら。)

『城』1285。

2013-05-28 06:02:40 | カフカ覚書
さらに、村長さんのお考えでは、あなたを雇うことによって、あなたの奥さんとふたりの助手の力も得られるのだから、校舎だけでなく、校庭も文句がないほどきちんと整備されるだろう、というのです。

 奥さん/Frau→Frei/自由。
 助手/Gehilfen→Gehirn/脳、頭脳。
 校庭/Schugerten→Schuldig/(非難されるべき事に対して)責任がある。
         →garbe/(光の)束。

☆さらに、村長さん(死への第一の門)の考えでは、自由と頭脳の力によって責任の束(集積)もきちんと整理されるだろうというのです。