この作品を見ると、慟哭にも似た激しい感情に襲われてしまう。
きわめて静かな作品である、激しさは微塵もない。しかし、この静けさゆえに激情は増してしまうのである。
情報を聞きのがすまいと、ピンと立てた耳、こちらを観察する眼差し、口はわずかに水面から出ている。息絶え絶えの体かもしれないが、それは確認できない。とにかく向かってきている…わたくしの方に。
《あの犬は自分である》
周囲との距離を測る自分は周囲の緊迫に常に圧されている、まるで水のなかを泳ぐ犬のように。
《犬(もう一人のわたし)との距離を測っている》
自分は世界(自然/地球あるいは視界における景色)との距離を自分の身体(感覚)をもって計測している。大気・風・振動・樹々・地表・内包された地下・・・つまりは存在の確認である。
それらは自分の外に在る。
そして自分の中には地表に足を浮かせ、一見静かだが大地(目標)にたどり着こうと懸命に身体を感知装置に変換してあえいでいる自分がいる。いわば《泳ぐ犬》、それこそが自分自身である。
刻まれた時間・傷痕、大きなホールは潮流の渦であり、難題である。自分が自分にたどり着くことは永遠に不可であるような様相を暗示している。
世界を刻み、自身を刻んでいく。
即ち、見えない形への緻密さは振動という粒子の感知であり、水流という抵抗である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)