続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬Ⅰ』

2016-01-03 07:27:13 | 美術ノート

 この作品を見ると、慟哭にも似た激しい感情に襲われてしまう。
 きわめて静かな作品である、激しさは微塵もない。しかし、この静けさゆえに激情は増してしまうのである。

 情報を聞きのがすまいと、ピンと立てた耳、こちらを観察する眼差し、口はわずかに水面から出ている。息絶え絶えの体かもしれないが、それは確認できない。とにかく向かってきている…わたくしの方に。

 《あの犬は自分である》
 周囲との距離を測る自分は周囲の緊迫に常に圧されている、まるで水のなかを泳ぐ犬のように。

 《犬(もう一人のわたし)との距離を測っている》 
 自分は世界(自然/地球あるいは視界における景色)との距離を自分の身体(感覚)をもって計測している。大気・風・振動・樹々・地表・内包された地下・・・つまりは存在の確認である。
 それらは自分の外に在る。
 そして自分の中には地表に足を浮かせ、一見静かだが大地(目標)にたどり着こうと懸命に身体を感知装置に変換してあえいでいる自分がいる。いわば《泳ぐ犬》、それこそが自分自身である。
 刻まれた時間・傷痕、大きなホールは潮流の渦であり、難題である。自分が自分にたどり着くことは永遠に不可であるような様相を暗示している。

 世界を刻み、自身を刻んでいく。
 即ち、見えない形への緻密さは振動という粒子の感知であり、水流という抵抗である。

(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


妹の来訪。

2016-01-03 07:11:27 | 日常

 一月二日にお墓参り、恒例になった妹の来訪。

 なにかと世話になっている妹である。
 お互いの健康を確かめ合い、年を重ねてきたことの感慨に耽りつつも、
「ところでお姉さん、毎日ブログを書いているようだけど、物になっているの?」と厳しい。

「そうね・・・、まぁいいのよ、何とかやっているわ」とお茶を濁す姉のわたし。

「惰性にならないように、一日一日、眼をしっかり見開いてやっているわ」なんて、言えないもんね。もうすぐ69才になるけど・・・。

 《言い訳しないで、ギリギリ自分を追い詰めていく》そんな風になれたらいいな、と思っている。でも、自分に甘いかもしれない日常。
 (無理しない)(無理しろよ!)

 今も現役で仕事をしている妹には、なかなか本音も言えない。わたしは遊んでいるのかな・・・。

 NHKの紅白の視聴率が低かったらしい。ちなみに妹は一昨年100枚、去年は170枚の申し込み希望のはがきを出したとか・・・。
 「当たらないのよね、千枚出さないとダメかしら」と衝撃発言。

 わたしの方は当たらないどころか、ピアスをティシュに包んで、そのことを忘れて、ポイ。
 大量のごみの中とても探せない。厄を落としたと思って諦めたけど、170枚のハガキ代でお釣りが来るような代物。
 でも諦念は共通。厄を払っていい年にしたいね!


『銀河鉄道の夜』186。

2016-01-03 06:58:23 | 宮沢賢治

「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。
「さうですか。いや、さようなら。」大学士は、また忙しさうに、あちこち歩きまはって監督をはじめました。


☆悉(ことごとく)霊(死者の魂)が題(テーマ)である。
  愕(おどろくような)死の題(テーマ)を学ぶ試みの謀(計画)は、普く換(入れ替えて)読む。


『城』2191。

2016-01-03 06:44:00 | カフカ覚書

よく役人の口授する声が小さすぎて、書記ののうは、腰をかけたままでは聞きとれないことがあるそうです。そういうとき、書記は、たえず椅子からとびあがって、口授されたことを聞きとり、すばやく席にもどって、それを書きとめては、またとびあがるといった調子です。なんて変てこなことでしょう!ほとんど理解に苦しみますわ。


☆管理者の命令はしばしば小さすぎて、書記はほとんど聞きとれません。そんなときいつも(怒りが)こみあげてきますが、命令を素早く聞きとり記入します。
 なんて奇妙なことでしょう。ほとんどが不明瞭なのです。


生きるとは教えてもらうこと。

2016-01-03 06:08:14 | 日常

 生きていくということは、日常の些事から大きな教えを学び取ることかもしれない。自分の思い込みを削り、他者の考えに照らし合わせながら修正していく。
 迎合とは違う、自身の眼差しの矯正である。

 信じていることが必ずしもベストではないこと、自分という思い込みを棄てて他者との共存に喜びを見い出した時の思いがけない歓喜。
 《あなたがいてわたしがいるという》単純かつ明快な論理、あなたという対象が複数になり世界が広がることへの確信は勇気と希望を膨らませてくれる。

(井の中の蛙)という消極的で無難かつ翳りある日常と少し距離を置いて自分を鑑みると、見えなかったものが見えてくる不思議な現象が生まれる。


 恥ずかしいから隠れて生きていく、自分を否定してばかりの時間の集積が自分を圧していたかもしれない。
 「勉強しようかな」と母に言ったら、「何を今さら・・・」と苦笑いされたのはちょうど息子たちと同じような年齢だった。
 あれから三十余年、《何を今さら・・・》と苦笑いしながら、教えていただくことに挑んでいる。(他者の存在そのものがすでに教示の情報を潜ませている)

 そうして今、《生きることは教えてもらうこと》だと・・・ようやく気付いたような気がする。それは、むしろ《わたしがわたしであるため》の学びである。