一人の人に対峙する林立の存在物。人は身体を巻かれ運動機能を拘束されている、感覚器官のみの存在と換言出来るかもしれない。
林立する幾多の棒状のものは《自然》の抽象化と捉えられるだろうか。枝葉を落とした幹は樹の幻影のようである。
つまり、存在の核心との対峙である。
向かい合う、対自然の感覚。飛葉は見えない。すでに消えてしまったのだろうか。確かにこの樹に生命の証として伸びていたはずの葉の存在。
樹木は一つの社会であり、数多の葉は人にも喩えられる循環の要である。その飛葉…役目を終えて地上あるいは地下に眠る宿命に甘んじる自然の理、すでに枯れ落ちてしまった葉は、不可逆の時空を辿る人の宿命に等しい。
『飛葉と振動』…この作品の寂寞にはどこか震撼とさせられるものがある。
これは、誤解を恐れずに言うならば、『葬送の胸の疼き/振動』である。飛葉という死へ滑り込んでいく葉への哀悼。
厳かな葬送の儀式、人も葉も同じ定めを生きている、そして必ずや迎える死という最後の日。
若林糞は姿勢を正し直立して、自然(樹木)に向き合い敬意を払っている。等しい関係のうちに短い周期で死期を迎える葉の存在を飛葉と呼び、その終末を悼んでいる。
『飛葉と振動』は、美しくも哀しい葬送の儀である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)