暖かいお正月は心地よく時間を経過させていく。
暮のうちの慌ただしさは止み、ぼんやりと静まり返っている老人世帯の寂寞。
あちこちに不都合を抱え、破れ傘同然の惨状。見栄を張るほどの意地もなく、ただ呆けたようにTVを点けたり消したりのTV依存生活。
それでも外に出てみると、もう梅の開花が始まって遠目にもチラホラ白く見える。
《再び咲く花》は胸を打つ。
「また今年も、新しく始まりました」梅の花からの挨拶は実に謙虚で清々しい趣きがある。
そう、生きている限りは《初々しい心》で日々向き合わなければいけない。
背は丸くなり、駆けることも適わない足の弱体化、膝痛…皺が寄り、おばあさん然としたわたしの見るに忍びない姿を、誰が笑おうとも自分だけは愛おしんであげなくては!
暖かい冬の日に感謝しつつ、今日為せることをクリアーしていく。(鄙びた容貌の代りに人生の蓄積がある)と信じて、2016年の山に挑みたい。
『無題』と題された試作の一つである。
三つのものが三角形を造る位置に置かれている。
なぜ三角形なのか…自分を起点として広がる視野、つまりは所有出来うる空間認識である。
この三角形はどこを基点に置き換えても同じ空間を所有しうるはずである、しかし、時間の経過とともに想定外の変化を展開し、例えばこれが樹木であれば空間(大気)に侵入し、その形を変形させていくだろう。
継続される時間は同じ現象を生まない。
未来における三角形の位置関係は、必ずしも保たれるものでなく、歪みを生じることは必至である。
三角形という線(一次元)から立ち上がる平面および立体の含有する領域は、空間を侵略する。侵略された形、つまりは流動性を余儀なくされる空間というものの静かなる微動(振動は見えず聞こえない。
しかし、森閑とした森の一隅に眼差しを至近距離において思索を続けるならば、驚異の囁き(振動)に触れることが出来るのではないか。
三角形の原初、四角形の限りない広がり・・・若林奮の視覚の確定・占拠は飛葉(生命の流転)における時空の継続を予感させる。
三角・四角・円・球体は所有の究極の形であり、生命《存在》の発露である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『マグリット』展・図録より)
八、鳥を捕る人
「ここへかけてもようございますか。」
がさがさした、けれども親切さうな、大人の声が、二人のうしろで聞こえました。
☆夜、懲(過ちを繰りかえさないようにこらしめる)を補((助ける)図りごと。
真(まこと)を接(つなぐ)題(テーマ)の図りごとである。
照(あまねく光があたる=平等)の示す腎(要)を、問(責任や罪をききだす)。
でも、こんなくだらない使者の勤めってなんでしょうか。わたしは、朝、お城へ行ってくるよとバルナバスに言われたら、悲しい気持ちになりますわ。どう見ても無益としかおもえないこの城への道、空費としかおもえない一日、徒労としかおもえない希望ー
☆でもこんな重要でない先祖の小舟の勤めって何なのでしょうか。わたくしは早くに終り(死)だと、バルナバス(生死の転換点)に言われたら、悲しい気持ちになります。どう見ても無益な方法だし、絶望的な日です。死んだ人の希望・・・