一生このまま家の中に閉じ籠っていたい。けれど、あるとき足が萎えていくのを感じ、このまま歩けなくなる不安に襲われた。
外に出なくては…歩かなくては!
元来、陰気な人間である。どうしても外へ出れないわたしの取った手段(?)は、何らかのイベントに申込み、その期日が来たら出なくてはいけない状況を作るという、面倒くさい方法だった。
十年余りの月日が流れた今でも、一歩出るその瞬間が重い。
出ざるを得ない状況に支えられて、辛うじて今の小康状態を保っているのだと思う。
「歩こう会」や二つのサークル、博物館や美術館のイベントがらみの外出・・・本日も博物館のイベントで三崎の『チャッキラコ』を見に行き、午後からはサークルと忙しく出歩いている。
バス停などで友人に会うと、
「お互いよく出かけるね」などと声をかけられる。
「毎日出かけているの?」と、聞かれるので
「まさか・・」と苦笑い。
健康維持のための外出で、マグリットや若林奮にも出会えたことは、幸いと言うよりほかはない。
外へ出れば、必ず何かが待っている、そう信じて今日も出かける予定。
『影』
一般には、光を遮った後ろにできる黒い(暗い)形を言い、実体のない物や現象、あるいは黄泉の国を指すこともある。
この作品のどこを指して『影』と称したのだろう。中央の木はシルエットであり、どこから光が来ているのか不明であるが、右に影が落ちている。背後に立体感をもって描かれたパイプの影も薄っすらと右に落ちているように感じるが、真上からのようにも思われる。
地面は何故か水色であり、地表面であることを疑わざるを得ない彩色である。水面(海・・・)ではないか。
とすると、二つの物は浮いているのだろうか。もちろんこのような形で浮くことは有り得ない。
木とパイプ…大きさに対する概念を覆す配置である。背後のパイプが生い茂った樹木より大きいとは考え難い。
空は一見すると、夕照のようであるが、仰ぎ見た上空は暗澹としている。今にも雨が降りそうな曇天の夕照などあるだろうか・・・。
全てが条理を覆している。
この光景を『影』と題している意図は何だろう。自然の理から外れた現象は現実ではない。
『影』は夢想、人為的な工作であり、虚偽である。しかし、わたし達は目の前に差し出された光景を疑うことなく信じる傾向がある事を思うと、精神を揺さぶる警告のようでもある。
在る(描かれてはいる)けれど、無い(真実ではない)ものを、影と呼ぶのだとマグリットは示唆している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へました。
☆較べて覚(悟り)、縷(つらなる糸)の路(物事の筋道)を示し、統(一すじにまとめる)。
そういうときには、あるいはバルナバスの姿を眼にとめてくれるかもしれません。もっとも、クラムが眼鏡をかけずにものが見えるとしての話ですが、バルナバスはそれを疑っています。クラムは、そういうとき、眼をほとんど閉じているのです。まるで眠っているようで、夢の中で眼鏡を拭いているとしか見えないそうでう。
☆傍らで眼にとめていたかもしれません。もっともクラム(氏族)が苦しむことなく輝いていればの話ですが、バルナバス(生死の転換点)はそれを疑っています。まるで苦しみを夢の中で清めているとしか見えないそうです。