芽が出て 膨らんで 花開く…けれど、枯れない花はない。いつかは劣化し、この地上から姿を消していく。
花の季節も記憶にないわたしだけれど、68年という時間を経過したことだけは事実であり、いつか散るという不可逆を生きている。すでに下降・劣化の旅の途中、息が切れるし、記憶も定かではない。思い出せないことだらけで、一日の大半を探し物をして暮らしている。
あのものはどこへ消えたのだろう・・・ため息、頬杖、遠い眼差し。
整理整頓に疎い、置いたら置きっぱなし。重ねて見えなくなったものは無に等しい。それを探そうとするのだから徒労に終わりるしかない日常。
付けて加えて気力の低下、《今日出来ないことは明日に》という怠慢、明日は永遠に来ないかもしれない。
《まずいな、まずいな》自身を叱咤する。
枯れた花にいくら活性剤を注いでも再び返り咲くということはない、諦念、うす笑い・・・。
しかし、年配者には年配者としての生き方があるに違いない。役立たずの後ろめたい立場を卑下してはならないと、自分に言い聞かせている。
《美しい黄昏》を目指す権利。
人として正しく優しさに溢れた温かい選択を目指したい。たとえ、今日が冷たい冬の最中であっても。
『Ⅰ-4-4 [無題]』
全体はブルー(水色)で着色されている。即ち、海を想起させるオブジェであり、平面をある種の勾配をもってくり抜かれている。
この曲線に覚えがある!波が打ち寄せ退いていくあの感じではないか。
では、上の二つの正四角形に見えるマスは何だろう、きっかり四角ということは人為を想起させるから、これらは社会の暗示かもしれない。波(海)に比しての大きさである。
端にある物は電気のスイッチを想起させるものであり、エネルギーを引き出すものとしての暗示だと思う。
実際、海流には多大なエネルギーが発生しているはずであるが、それを還元しているのだろうか。
赤道付近で温められた熱はグリーンランドのほうへ向かう、その熱は…という風な熱エネルギーは閉じられたままかもしれない(一万年の周期では無理はない)。しかし、大気における対流(偏西風・貿易風)もあり、本来地球はエネルギーの中に暮らしている。
波風の発するエネルギーは不安定であるゆえに、供給には課題が残る。
しかし、でも・・・《この海の中には多大なエネルギーが潜んでいる》と作家は思案する。
(写真家神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「眼をつぶっているね。」カンパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさはりました。頭の上の槍のやうな白い毛もちゃんとついてゐました。
☆願いの詞(言葉)の路(物事の道筋)は散(ばらばら)である。
化(形、性質を変えて別のものになる)を合わせていると吐く。
冥(死後の世界)の願いを問えば、照(あまねく光があたる=平等)であり、双(二つ)を吐くことを望んでいる。
すると、バルナバスは、その手紙を投げだし、届けにいこうという気もなく、かと言って、眠ろうという気にもならず、靴つくりの仕事に取り掛かり、一晩じゅうあそこの床几に腰をかけたままでいるのです。
☆すると、バルナバス(生死の転換点)は、愉快に死を迎えられない手紙を並べます。負債者の現場不在を調べ、暗闇の中の影(幻)を来世ではやりすごすのです。