スーパーに勤めている人のコメントに、「5000円のステーキをこともなく買っていく人もいれば、値下げのシール満杯の人もいる」とあった。
(見られているんだな)とドッキリ。
言わずと知れた《安物買いの銭失い派》のわたし、百均で時計を買ったらバンドの留め具が壊れてしまったので、東南アジア系の人が短期のみの商いをする店で大枚(?)1000円を払って腕時計を購入。
けれど時を待たずして、またもや故障?針が止まってしまった。
(アッハハハ)
こんなもんだわ、わたしって・・・。
バスを待つ間、恨めしくネジを回したら・・・えっ!動いたわ。
今時珍しい《ねじ式》
なんだか嬉しくなってしまった。
安物買い派も悪くないね・・・。(数々の失敗、あれはみんな授業料だもの、惜しくないわ)
「残り元素」って何だろう。
化学的に分解した最小の要素ではなく、ここは哲学的なことを言っているのかもしれない。ギリシャ哲学の万物の基本である四元素/地・水・空気・火(仏教では地・水・火・風)
《この他に在る、他にもある元素》ということだろうか。
作品から受ける印象は恐怖である。手や足首の欠けた疲弊した人間が、殺戮を暗示する強力な武器に脅迫されているような構成である。
スイッチが入れば、即、死を免れないような切迫した状態は、何を意味しているのだろう。
万物の基本・・・地・水・空気・火、そして目に見えない恐怖(精神の振幅)だろうか。精神は物質ではないが、火もまた現象ではないだろうか。
作品における人物は、膝を曲げている。つまりは足の機能を果たせないということである。手も足も出ない…背後の強迫に対し、攻撃の術を持たず、逃げることも適わない。そして武器もまた人智の為せる術である。
宿命・無、あるいは祈り、抗う術のない死を覚悟した状態・・・単なる有機物質に還っていく予兆を孕んだ図である。
『残り元素』とは、《人間の業》かもしれない。
(写真は神奈川県立近代美術館・葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまへる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんゐますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いゝえ。」
☆考えを調(ととのえる)章(文章)は、倍の果(結末)がある。
眺(遠くを見わたし)覚(感知し)願いを吐く。
帖(ノート)に書く拠(よりどころ)は冥(死後の世界)を問うことである。
「だから、この勤めも、一見らくなように見えますが、とても疲れるんです。と言いますのは、バルナバスは、たえず注意をくばっていなくてはならないからですわ。とにかく、ある日のある時刻に書記が、バルナバスのことを思いだしてくれて、彼に合図をします。
☆だから、この晩餐も死体のように見えますが、預言者も疲れるんです。バルナバス(生死の転換点)は絶えず注意しなくてはならないからです。書記がバルナバス(生死の転換点)のことを思い出してくれて、彼に身振りで知らせてくれるのです。