続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅰ-1-5 [無題]』

2016-01-18 06:25:31 | 美術ノート

 不思議な作品である。(作品群と言った方が正しく、その一つである)

 膝を立てたその足が床に着地していない。重心は臀部と背中に張り付いた得体の知れない物体の着地点の二点に在るのみであり、二点によって安定を保っている。
 人と背後の物体の関係性は不明であり、その物体が何を具現しているのかも分からない。

 時間(過去のデーターの集積)だろうか、精神的なものに違いないと思うが、正(前向きなもの)なのか負(悔恨)なのかも不明である。ただそれが酷似した太い棒状の物の連鎖であることに着眼すると、やはり、抱え込んだ時空の連鎖、つまりは自身の過去という推論に至ってしまう。

 不安定きわまりない人は膝を曲げている、つまり真直ぐ立っていないということであり、留まっている、思案に暮れているということである。このままでは床に倒れ込むしかない状態であるが、辛うじて背後を支えるものがある。

 思索・・・観念(肯定)・否定・経験の連鎖・・・あらゆる内在の認識は外気(世界)との調和を図っている。膝を立て、手を排除された人は運動機能を失っているばかりか眼(視覚)鼻(嗅覚)耳(聴覚)口(味覚)などの感覚もない。

 ひたすら存在の感覚を、何か(自身が持てるデーターの集積)で支え、均衡を保とうとしている。全てを放棄し、感覚のみで世界を推し図ろうとでもするかの静寂・集中である。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』201。

2016-01-18 06:17:28 | 宮沢賢治

「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか」
「標本じゃありません。みんなたべるぢゃありませんか。」
「をかしいねえ。」カンパネルラが首をかしげました。


☆路(物事の筋道)である往(人が死ぬこと)は、要である。
  表(おもてに出たもの)を翻(形を変えて作りかえる)。
  平(平等)の本(物事の根本)が趣(ねらい)である。


『城』2206。

2016-01-18 06:06:09 | カフカ覚書

しかも、そのおかげで、バルナバスは、けしからん、のろまな使者だという評判をたてられてしまうんです。書記のほうは、もちろん、平気なもので、バルナバスが手紙を渡すと、〈クラムからKにあててだ〉と言うだけです。これだけでバルナバスは退出です。


☆そしてバルナバス(生死の転換点)は、悪意ある怠慢な使者だという評判をたてられてしまうのです。書記のほうは死の作り話で、バルナバスに手紙を渡すと〈クラム(氏族)からKあてだ〉と言うだけです。それによってバルナバスは解除になります。