続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

わたしの神さま。

2016-01-31 07:38:40 | 日常

 Kさんはどうしているかしら・・・最近二か月ほどは顔を見ていないKさん、そう思いながら例の四人会のためにバス停に向かったいたら、傘を差し買い物袋を下げたKさんが曲がり角からひょいと現れた。

 (雨が降っているのに出かけなくてはならないなんて)ちょっぴり重い気持ちだったわたしの前に姿を見せたKさんの軽い足取り!

 「ちょっとね、用があったから」と、笑顔のKさん。
 「寒いのに・・」と言えば
 「あんたこそ風邪ひかないように気を付けてよ」と勿体ない忠告。

 齢96才の元気に励まされたわたし。Kさんのいろんな経由を知っているけど、いつも丈夫で元気。
 一日の神社参りを欠かさない。

 そうね、神さまはいらっしゃるのかもしれないわ。

 わたしも頑張らなくちゃぁ・・・わたしの神様はあなたかもしれない。


マグリット『記念日』

2016-01-31 06:54:26 | 美術ノート

 『記念日』
 何の記念日なんだろう。室内に巨岩石がある。侵入は有り得ない、屋根を突き破ったのでも入口を破壊したのでもなく、部屋の中に鎮座している巨岩石。むしろ室内(部屋)が巨岩石を包んでいるとさえいえる状況である。

 主なる神はとこしえの岩だからである。

 わたしのほかに神はいるか、
 わたしのほかに岩はない。   (『イザヤ書』より)

  室内を満たす岩は神の象徴なのだろうか。動かすことも退かすこともできないように見える。他の物が入り込む隙間さえない空間を『記念日』と称する理由はどこにあるのだろう。

 室内(人為的建屋)は英知ある人間の精神の具現だとすれば、岩は単なる岩でなく信仰の対象/要である。
 人の心に大きく居場所を占め動かし難く存在する信仰は《ある日》をもって扉を開けたのかもしれない。精神の扉は巨大なものをも受容する。
 精神の流動性はあらゆる変幻を許可し、有り得ない現象を許容してしまう。
 
 窓の外の景色は海のようにも見える。もしかしたらこの部屋は海に浮いているのではないか。巨岩石の比重を考えたら浮くはずのない状況である。


 自然の理をいとも簡単に超える現象を見せる《精神界のマジック》は、人類史上の記念日として刻まれるべきかもしれない。
 マグリットの感想である。


(写真は国立新美術館「マグリット」展・図録より)


『銀河鉄道の夜』213。

2016-01-31 06:09:32 | 宮沢賢治

「いや、商売ものを貰っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。
「いゝえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」


☆章(文章)は倍(同じものを二度加えること)に盛られ、訊(問いただす)謀(はかりごと)の詞(ことば)がある。
  金(尊い)念(思い)の図りごとを重ねて継(つなぎ)、記している。


『城』2218。

2016-01-31 05:57:46 | カフカ覚書

それに、あんたは、わたしたちのためにも戦ってくれているのでしょ。それは、あんたにとってまるで意味のないことかしら。それは、あんたに新しい力を鼓舞してくれないの。わたしは、あんたのような弟をもって、とても幸福だし、ほとんど鼻高々なんだけど、このことも、あんたになんの安心感もあたえないの。


☆それに、わたしたちのために戦ってくれているのでしょう。それは十分ではないの。少しも新しい力にはなっていないの。だから、私は幸福だと自負しているけれど、先祖の同郷人として少しも安心できないの。