『ヘレン・シャルフベック』展ー神奈川県立近代美術館/葉山
写実の技法に長けた画家の作品は、彩色のトーンを外さずすことなく精緻な印象を放ち、到底その域にまで達しない不器用なわたしには眩しいほどだった。(『回復期』など)
魅了するに十分な力量の画家は更なる展開を遂げ、その洞察力は恐れを抱かせるほどの迫真を秘めたものに変貌していくのを会場では一望に見ることが出来た。
目を合わせがたいほどにこちらを見透かす眼差し、『サーカスの女』の赤い唇は見る者を惑わせる魔力があり、それは官能的というよりは一途な誇りを潜ませている。女らしい優しさ、そこはかとない色気と哀愁、それらを胸に秘めた毅然とした風貌は鑑賞者を一瞬たじろがせてしまうほどである。
『赤いリンゴ』に際立つ赤の彩色。美しいというよりは、赤という魔物が生きているとさえ感じさせる有り様である。
彩色、《色が色という役割から離れて活きている》
そう見せる全体のトーンの妙・・・。
内実をえぐり出す、選択された一本の線描(色面)は、写実の巧みさを凌駕した画家の眼差しであり、深層の投影である。
「彼女は写実から平面的な描写の中に自身の確信を見いだしていきました」という水沢館長さんのお話の通り、平面的な描写の中に写実を越えた深さ、そして見る者を震撼とさせる線描に至ったのだと納得させられる展覧会でした。
水沢館長さん、丁寧な解説有難うございました。
赤ひげの人が、少しおづおづしながら、二人に訊きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪さうに答へました。
☆析(わける)図りごとの章(文章)は、普く腎(大切なところ)である。
腎(かなめ)の法(神仏の教え)の講(はなし)は、照(あまねく光があたる=平等)を握(手に収める)祷(いのり)である。
「わたしたちが泣きごとをいうのは、まちがっているかもしれません。わたしの場合は、とくにそうですわ。なんでも話に聞いて知っているだけですし、女ですから、バルナバスのようによく理解することもできません。それに、バルナバスにしたって、まだ隠していることがいろいろあるんですもの。
☆わたしたちが嘆くのは間違っているかもしれません、とくにそうです。死を聞いて知っているだけですし、少女ですからよく理解することもできません。それにバルナバス(生死の転換点)にしたって、まだ多くの妨げがあるのです。