『終わりなき認識』
険しい山々の聳える中空に浮かぶ球体、その上に乗る人は遥か手前のこちら(室内)を見て頭を後頭部に回している、即ち思索の渦中である。
Reconnaissance(英)は探察であり、Connaissance(仏)は認識である。探察は相手(対象)を伺うことであり、認識は意味づけされた個人的な意識の働きである。
球体(真理)の上の男は建屋にいるであろう私(作家)を見ている。私もまた当然ながら球体の上の男を観察している。
球体(不変の真理)において、バランスの崩れは少しも許されず、偏ることがあれば、奈落の底に墜落するしかない状況である。
マグリットはあらゆる感覚器官を駆使して球体の上の男を探察する。感性・直観・理性・知性・悟性…今に至るまでの経験上知り得た情報を意識的に表象すべく描いた男の状況である。
《あの男は私である》客観的な確認のために描いた対象は、そのまま私の内的認識を外に現わしたものに過ぎない。
私(マグリット)は、中空に浮く不安定な存在そのものである私を観察し、私という感覚器官に拠りそのものを捉えようとしている。
しかし、真理という絶対の極みに一体化(同化)することなく、真理を足下に突っ立つ迷走ぶりが見えるばかりである。
どこまでも果てしなく真理への認識は追及される。認識における明確な表象に完結はない。
マグリットの感想である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、この人をばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
☆現れる化(形、性質を変えて別のものになる)詞(ことば)を憶(おもいめぐらせる)図りごとである。
題(テーマ)の企(くわだて)は独(自分だけ)のものである。
障害もあるでしょう。疑わしいことや失望することもあるでしょう。だけど、わたしたちがとっくに知っているようにそれは、棚からぼた餅は落ちてこないということにすぎないのよ。
☆妨害もあるでしょう。疑わしいことや期待外れもあるでしょう。しかしながら、わたしたちが以前から知っているように物語などないということです。
※人が作った物語などは現実にはない。(死の門は平等に開かれている)