神奈川県立近代美術館で開催されている『原田直次郎』展を見に葉山へ行ってきた。
『騎竜観音』は圧巻!すごいなぁと驚嘆。『靴屋の阿爺』など迫力の描写に圧倒された展覧会。
日本画の手法からここまでの洋画技法を習得・開眼した才気にひたすら敬服。
併せて安松みゆき先生の講演を拝聴。
研究者の叮嚀な追及・実証・検証には大いに感服。
直次郎の「稽古画の修練を重ねること」の言葉が胸に突き刺さった。
見えることだけでなく、想像するだけでなく、自分の世界を確立することの難しさ。
しみじみとした情感が伝わる展覧会だったと思う。
『色彩の変化』
黒・白・グレイ…変形フレームの中のブルーを除けばすべて無彩色である。それを以って『色彩の変化』と題した意図は何だろう。
よく見るとそれぞれの位置関係は極めて不安定であり、壁と見える面は上方にいくに従い広がっているようであり、枕の置かれた面は左に下降気味である。それを隠すように枕が置かれている。(接線は見えない)
フレームは中空に浮いているように見える、壁に落ちる陰によって距離間が暗示されているからである。
黒白のゼブラ模様の面にフレームが付いているものであれば、その面の影も壁に生じるはずであるが、それが無いということは壁の面より後方にあるということであり、フレームは浮いているということに帰結せざるを得ない。
全体小さくまとまり、部屋の一隅の印象を与えるが、描かれた対象物は全てバラバラな位置に距離をもつ空間として位置しているのではないか。
枕の大きさに対する固定観念がその流動性を阻止している。
フレームは形態およびその浮遊しているかの状態に疑問が生じる。真正面からの視点にしても上下左右の角が開かれたように見えるなどということはあるだろうか。
片面は漆黒(無)、他面は空を想起させるブルーに雲らしき白(見たことが無いようなキノコ型である)。
フレームの中の象徴は、起源、始まりの提示かもしれない。
ここ(フレームに象徴される起源)から、枕(現代)に至る時空の変遷を『色彩の変化』と称したのではないか。フレームに重力は関与していないのである。
確かに無(漆黒)からブルー(天空、青空は地球の特質である)を生じた変遷が、現時点までの連鎖を継続させており、『色彩の変化』が見えてくる所以である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が祈るやうにさう答へました。
☆等(平等)が題(テーマ)である。
主に志すのは、照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)であり、鬼(死者の魂)の等(平等)である。
それがまた、子供でもできるくらいのちょっとした力をこめて吹いただけで、とてつもなくすごい音の出る特別なトランペットなのでした。それを聞くと、トルコ人でも攻めてきたのではないかとおもいました。
☆それがまた子孫の人々にはちょっととした梃子の腕で、とてつもなくすごい言葉の特別な手段なのでした。それを聞くと悪意でもあるのかと思いました。