『集団的創造』
浜辺に横たわる魚人、下半身は女であり上半身は魚の頭部という有り得ない合体。
ローレライ(下半身は魚)の逆バージョンにはグロテスクな印象がある。なぜか、それは人が抱くイメージの浸透性によるもので、イメージを裏付けする物語性はそれを普遍化するが、否定するような設定(マイナスのイメージ)においては不審を抱かざるを得ないからである。
集団、それは「力」である。力をもってすれば何事も肯定され、否ではなくなる。
性器を露わにした女の下半身も魚の頭部も任意であり特定されることはないが、しかし、女性の尊厳を傷つけている。抵抗する術なく横たわる裸身は侮辱以外の何物でもない。
多くの人の目に曝されるこの画像は自然の産物ではなく、人為的創造である。
この哀しい恥辱は鑑賞者の脳裏に刻まれる。
『集団的創造』とは、無抵抗な静けさの中で生み出される暴力に他ならず、不条理・矛盾・非合理的といった論理を肯定的に認識し、疑惑の余地に関心を抱かないことである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふのです。」
☆法(仏の教え)を納め、仰ぐ平(平等)の価(ねうち)は、化(形、性質を変えて別のものになる)の詞(言葉)による。
照(あまねく光が当たる=平等)を望んでいる。
「それからは、もう彼のことは耳にしていないのですか」と、Kはたずねた。「あんたは、ソルティーニをたいへん尊敬しているようだが」
「ええ、尊敬しています。おっしゃるとおりです。その後も、あの人の話は耳にしています。
☆「それからもう彼のことは聞いていないのですか」と、Kは言い、「ソルティーニをたいへん尊敬しているように見えますね」「ええ、尊敬していますとも」と、オルガ(仲介)は言った。「そう、わたしたちはまだっやっぱりずっと聞いているのです。