孫に電話をしたら、
「今日はお兄ちゃんのパーティなんだよ。ケーキもあるよ」と嬉しそうなハルちゃんのコメント。
パーティ?
パーティなんて言葉を使ったことのない家庭に育ったのに新世代の家庭ではパーティを開くのか?
キヨちゃんは五月生まれ・・・そうか、小学一年生になったので級友を招いて誕生会をするんだなと納得。
(今では誕生会などと言わず、パーティというのか)
隔世の感。
手探りの子育て、そういえば我が家でも子供たちの誕生会などを催したことがあった。文句は出なかったけど(質素に過ぎたかもしれない・・・)
「キヨちゃん、学校は楽しい?」
「うん、たのしいよ」
「給食とか、残さないで食べてる?」
「うん」
「国語と算数とかの勉強もしているの?」
「うん」
これからだね、勉強が楽しいといいね。お友達と仲良く遊べるといいね。
パーティという言葉が似合うような孫たちの世代、明るく楽しいものでありますように!
『遠眼鏡』
壁に設えられた両開きの開口窓に(海と青空と散在する雲)が映っているが、窓を開けた隙間に覗くのは(暗黒)である。
壁あるいは窓は(境界)であり、二つの異空間が共存しているという景である。
青空に浮かぶ雲という景には物理量があるが、開けられた窓から覗く暗黒は質量不定の無である。この二つの場(時空)が共存するということはあり得ない。
青空はあくまで窓の向こうにあり、暗黒もまた向こうである。窓の枠が時空の仕切りになるはずもないが、閉じられた窓からは青空が見え、開けると暗黒が見えるというのは静かなる怪奇現象と呼ぶしかない。
場の変移は時間や距離を伴うが、『遠眼鏡』では(青空=現実)の狭間から(暗黒=原初)が見えるというトリックを仕掛けている。
窓を開けて見える光景の《ずっと向こう》には宇宙の始まり(あるいは終わり)が在るに違いない、という想定である。
精神的な眼鏡は、透明ガラスの向こうに《異次元時空の並列》を垣間見せる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束いなって居ります。
☆変(移り変わり)を納め、合(一つに合わせる)。
代わりの訳(ある言語をほかの言語で言い換える)という則(きまり)の意(考え)である。
だいたい、わたしたちは、この日は頭の調子がおかしくなっていて、真夜中すぎに家に帰ったときは、アマーリア以外はみんなお城の甘い酒に酔って、のぼせあがっていました。
☆だいたい、わたしたちは、この日は馬鹿みたいになっていて、北にある小舟の家に帰ったときは、アマーリア以外は、甘い霊界の酒で(気持ちが)麻痺していたのです。