先日、近所のAさん(85歳・元教師)が、繁華街のバス停の椅子に腰かけ、並みいる人の合間から手を振リ、こちらを見ていた。
日赤の奉仕で伺ったときには、歩けないからと、窓から顔を出した方。膝の手術を今春予定していたけれど、持病のため断念せざるを得なくなり今日に至っている由。
「あなたが見えたから」と嬉しそうに話しかける姿は、きちんと身づくろい・化粧を施し元気そのもの。
でも、病院で「あなたお一人で、付き添いもなく来られたのですか?」と医師に驚かれたような不具合状態。
びっくりして「どこへ行くんですか」と尋ねると、
「三丁目のバス停から衣笠十字路へ出て横須賀駅行きに乗り換え、ここから追浜駅まで行きます。そこからはタクシーで」と笑った。
「いい絵があるって聞いたから」というけれど、町はずれの小さな画廊である。
絶句していると、
「若冲も見たいのよ、でも、妹が・・・」「それにね、近所の高齢の何々さんはって私と比較するのよ、悔しいわ」とこぼした。
バスに乗り込むのも、人の手を借りなければ乗れず、中の人が手を引っ張れば、後方の人がお尻を持ち上げるという具合。
無事椅子に腰かけた彼女、「じゃぁね」と手を振ってくれた。
「・・・」
わたしも高齢者の仲間入りをして久しい。彼女の今日はわたしの明日である。
つくづく、もう少し。
元気出して歩きましょう。祈るような気持ちでAさんに手を振り返した。
『喜劇の精神』
この作品を見ていると、おかしくも哀しく切ない気持ちになる。
人の形を模した薄い紙切れ状態のものが立っている。折って刻まれた穴は無数にあり、透けて見えるほどの欠落である。
わたくし(自身)を失いかけているが、辛うじて立ち、坂の勾配に逆行している。
すでに自分を消している。見栄・誇り・プライドを消失させ、傷だらけの全身を曝す覚悟。
(さあ、ご覧あれ)喜劇の精神は転げ落ちるような坂を満身の力で、くい留めている。
バックはくすんではいるが清浄な青である。
喜怒哀楽を通して喜劇の本髄を示すには、自分を殺さねばならない。裸の魂が、聴衆の感動を呼ぶ。
喜劇・・・人の見栄・誇り・プライドを大いに満足させるところに喜劇の精神の原点がある。ゆえに、それらを払拭し、もの悲しくも死人のような魂をもって演じるのである。
笑いを惹き起こすこと、それは現状との差異にある。だから、現状の生身の人であることを捨てることが『喜劇の精神』なのではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「まあ、あの烏。」カンパネルラのとなりのかほると呼ばれた女の子が叫びました。
烏はウと読んで、有。
呼ばれたはコと読んで、虚。
女はジョと読んで、叙。
子はシと読んで、死。
叫びましたはキョウと読んで、経。
☆有(存在)の虚(むなしさ)を叙べる死の経(仏のおしえ)がある。
それに、これは、愛の手紙というようなものではありませんでした。女性をうれしがらせるような言葉は、どこにも書いてないのです。むしろソルティーニは、アマーリアを見てこころをとらえられ、仕事ができなくなってしまったので、あきらかにそのことを腹にすえかねたにちがいありません。
☆まったく恋文などというものではなく、そこには嬉しがらせるようなことは一つも書いてありませんでした。ソルティーニ(来世の太陽)はアマーリア(マリア/月)を見て感動し、たくさんの死には明らかに腹を立てたのです。