続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

わたしであるように生きる。

2016-05-16 07:33:36 | 日常

 ある日気づく、わたしはわたしであるより外はないのだと。

 不格好な人間であり、ろくでなしでもある。指摘され動揺したり怒ったりするのは愚かもしれない。

 (なるほどそうであり、そのとおりである)
 自分をありのままに認め、そのうえさらに醜悪の悲観にさらされるのを覚悟しなければならない、即ち老化である。

 萎んだ花、枯れた草木・・・今のわたしはまさにそういうエリアに突入している。

 (いいじゃないか)と肯定する。
 沈む夕日のあの達観、大きく紅色に世界を包む輝き、そういうものを胸の内に収めよう。

 わたしはわたしであるより外はないが、わたしであることに誇りをもち、その誇りを汚さないように生きたいと思う。

 白露や 死んでいく日も 帯しめて (三橋鷹女)


マグリット『大潮』

2016-05-16 06:30:49 | 美術ノート

 『大潮』
 海が描かれず、青空に散在する雲と規則性をもって並んだ鈴の光景がフレームに収められている。フレームの周囲には堅固な岩石が散在しており、周囲は暗黒である。

 これらの条件が『大潮』であるという。
 周囲は暗黒であるにもかかわらず影が差している。大潮は干満の差が最大になることであり、新月・満月に起きる現象である。

 たしかに明暗の差は最大であリ、昼と夜、雲(水/有機)と岩石(無機)の比である。
 岩石はランダム(ありのままの自由)だが、フレーム内の鈴(主張・命令・流言・伝説など)はある種の規則性(不自由)が認められる。
 フレームに収められているというイメージから大きさを固定されがちであるが、巨大な宇宙空間にまで広げることが可能であり、時空に限定はない。

《あるがままの自由である原初、あるいは終末》と《言葉による社会の構造を持つ現代》との落差を『大潮』と提示したのではないか。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『城』2317。

2016-05-16 06:02:14 | カフカ覚書

「で、ソルティーニは、どうなったのですか」
「ええ、ソルティーニね。わたしは、この祭典の日、それからまだ何度も通りすがりにソルティーニを見ましたわ。あの人は、梶棒に腰をかけたまま、腕ぐみをして、お城の馬車が迎えにくるまでそこから動きませんでした。


☆「で、ソルティーニは?」「ああ、ソルティーニね」とオルガは答えた。
 「わたしはこの要塞にソルティーニが何度も通り過ぎるのを見ました。あの人は十字を切ってお礼をしました。終末(死)の(こぐま)座(生死の転換点の入口の門)が迎えにくるまでとどまっていたのです。