『階段を下りる裸体』
階段らしきを下降していく連写の物体が見える。(裸体)と言っているのだから(人)を想起する。カシャカシャ音を立てて下降していくようなイメージの図形である。顔・胸・腰・足…順を追ってそれらしきを了解していく、確かに着衣はないから裸体というのも当たっているが、肉体には見えず、木質か紙質を任意に切って接続したようなムードである。
そして、接続を示す要因はなく単に人の形態を模して接続されているのだろうという推定が働くだけである。
作品と言葉(タイトル)の前で、鑑賞者は『階段を下りる裸体』をこの作品の奥に、あるいは手前に作り上げる。階段を下りる裸体をよりリアルに想像する。
連写を想起させる被写体は、あたかも継続の時間を持っているかのようであり、生き生きとした呼吸、せわしなく降りて行く空間を想起する錯覚を可能にする。
しかし、『階段を下りる裸体』の必然性はどこにもなく、無為・無目的である。裸体のまま室内を歩き回るというのも例外を除けば非日常的である。
《非日常の中の無為》は、ささやかに《時間の経過》を感じさせている。
茫漠とした日常の不可逆の時空に生きねばならない裸(無産階級あるいは裸で生まれ裸で死んでいくということ)の悲哀、希望や楽観はなく、どこまで下りて行くのか不明な位置関係(ここがどこなのかさえ確定していない)の不安が残るばかりである。
ある意味、人の原初を問う作品かもしれない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪童子はまつすぐにそつちへかけて行きました。
雪童子はセツ・ドウ・シと読んで、説、同、死。
行きましたはアンと読んで、案。(またはコウと読んで、考・講)
☆説(はなし)は同(平等)であるべき死の案(考え)である。
父は、わたしがまだ話しおわらないうちに、この計画をしりぞけてしまいました。父の意見では、これからもベルトゥフの畑のそばで待ちつづけなくてはならないが、自分はきっともう毎日歩いて出かけることはできないだろうから、おまえたちに手押し車に乗せて連れていってもらわねばなるまい、と言うのでした。
☆わたしが話し終えないうちに、父はわたしの計画を排除しました。自身の意見ではベルトゥフの幕のそばで待ち続けなくてはならないが、毎日昇っていく力がないので上へ運んでもらわなくてはならないと言った