細々と続けている水彩の会、今や実質四人の月イチサークルである。
「今日は、身体中痛くてやっと来たわ。何をしても疲れるの。お使いに行っても帰宅するとぐったり、そのまま倒れ込んで寝たいくらいなの」とYさん。
「まあ、まあ、それは大変ね、お互い年を取ったということよ。わたしも同じ」というKさんの手元を見たら包帯が・・・。
「どうしたの?」
「それが…花を持ったまま転んだの。骨折よ・・・」
「いつのことなの?」
「一週間前」
驚いて腫れ上がっている彼女の手をそっと触ってみると、熱はすでに引いていた。
「気をつけてね」
「気をつけなくちゃね、もう遅いけど。不具合のある手で料理をしていたら火傷をしたわ」
「ええっ!!」
どんどん、急速に加速をつけて劣化の真っ最中のわたしたち。
「わたしもね…」言いかけて、これ以上サークルの空気を暗くしてはいけないと言葉を飲み込んだ。
ああ…、言葉が出ないよ。
『接近する金属の中に水車のある独身者の器具』
見事なまでに接続不能な単語を強引に並列させている。(接近する金属)なんて想像できないし、その中に水車がある?・・・そういう独身者の器具と言われても。
「タイトル道理の物を制作してください」という依頼に応えられる人はいるだろうか。抽象的というより無理難題、制作不可能だと断言できる。
しかし、「そういうものである」と作品を提示せしめている。
もっともらしい鉛(金属)ガラス板に描かれた水車らしき車輪、描いたのであって立体的に物象化したものではない。もちろん不可能だからであるが、その形態・構成自体も在りそうで有り得ない崩壊を免れない図式なのである。
見えている、しかし内実の不具合は見えず、その組み立てを再現しようとして初めて発覚する不備、空想の代物である。
では、なぜ?「この作品の意図は?」
一見つながって意味を成しているようなタイトルと、肯定せざるを得ないような思索を重ねたかに見える設計に不信を抱けない。
(そうかもしれない)という安直な感想に終始してしまう。鑑賞者はこのタイトルと作品自体の袋小路を彷徨するという奇妙な体験を強いられてしまう。
総てを理解しているという傲慢さの試薬でもある。デュシャンの《無為》の横行は、鑑賞者の思い上がりの鼻を挫くかもしれない。
デュシャンの静かなる反逆の眼差しは遠く果てしないほどの空漠を見つめている。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
峠の雪の中に、赤い毛布をかぶつたさつきの子が、風にかこまれて、もう足を雪から抜けなくなつてよろよろ倒れ、雪に手をついて、起きあがろうとして泣いてゐたのです。
☆峠(一番大変な時)の説(話)を注(書き記す)。
積(積み重なる)亡(死)は普く祀(神としてあがめる)。
普く束(自由を奪われ)説(すべて)は罰(懲らしめられるので)、禱(神仏に祈る)説(話)であり、守るための記を究める。
もっとも、従僕なんてものは、たがいによく似た格好をしていますので、はたしてあの使者を見わけられるかどうかということになると、わたしにも完全な自信はありませんでした。
☆明らかに先祖の死人たちはどちらにしてもよく似ています。あの人を再びわかるかどうか、わたいは確信が持てません。
※Dienerは英語のdieを潜ませているのではないか。文章は暗示に満ちているが、方向性は一つ、現世に等しい差別が死にいたる領域においても行われ、小舟に乗った死人は本当の死に至らず、周遊しているという噂に対する抗議。「死とはなにか、生きるとは」「尊厳」が隠されたテーマだと思う。文章として成立しない言葉を書いているのは心苦しい限りですが、カフカの真意を手探りしています。