NHK短歌を見ていたら「ダメな自分を肯定…」と聞えてきた。
ダメな自分を肯定してばかりのわたし、(それでいけない)というのだろうか。朝の支度をしながら拝聴だったので判然としないまま。
けれど、「ダメな自分を肯定…」という言葉は、ズキン!と胸に響いた。どこかへ出かけることを億劫がってばかりの自分は、どこへも出かけられない。
行こうという気持ちはある、やろうという意思もある。ただ、それだけで日暮れていく日常。
もう70才だもの、という年齢に甘えている。(もういいの、もうお終い。何もかも)淋しくダメな自分を100%肯定している。
「さようなら」を清々しく言われるように、がんばれ、がんばれ、わたし!」
『9つの雄の鋳型』
9・雄・鋳型・・・確かに9つの形態(鋳型)らしきが見えるが、雄である要因も確定も欠如している。パターン化を強いられた雄(男)の職種の暗示かもしれない。
それらが2枚のガラス板に挟まっているということは、拘束であり、束縛・不自由を暗示しているのだろうか。
鉛・鉛箔という金属(硬質)の使用は、以上でも以下でもない形の規定に見える。
2枚のガラス板に挟まっている妙、脱出不能の幽閉。見えているが、隠れているという状況である。
鋳型ということは立体であるが、並べて平面に納まっている。
(9つの雄の鋳型)は、当然人間を想起させるが、人の両足らしきを見る以外に人の要素は皆無である。雄の何なのかすらも明白でないし、何かを当てはめること自体納得のいく答えに行き着かない。
ガラス板には亀裂が見える、外からの破壊か内なる破壊かは定かでないが、この状況が崩壊を孕んでいることは確かである。
9つの鋳型を見た鑑賞者は、相当する《何か》を探し思いを巡らせる。しかしデュシャンは相当する対象を外し、該当することのないように努めている。(もっともらしく見える、しかし見えるだけであり、在るが、相当する対象に結びつけないものである。)
探索~諦念への時間は人により異なるが、結局《無》に行き着く。存在しているように見えるが仮象であり、事物(作品)が内包するものは、《壊滅を導く空無》にほかならない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「毛布をかぶつて、うつ向けになつておいで。毛布をかぶつて、うつ向けになつておいで。ひゆう。」雪童子は走りながら叫びました。
☆亡(死)には普く慌(うろたえる)。
亡(死)は怖い接(はなし)である。
導く詞(ことば)には双(二つ)の況(ありさま)がある。
やがてわたしたちは、縉紳館へ行って、そこにいる従僕たちのあいだをさがしはじめました。
☆わたしたちは、大群のいるハロー(死の入口)へ行き、来世での死者をさがしはじめました。