学校から帰り、外遊びをしている小学低学年の女の子たちの声が室内にいてもよく聞こえる。
(あの子たちに紙芝居を試してみたいな)常々思いながら、どうしても勇気が出ない。でも昨夕、思い切って、手招き。
「おばさんの紙芝居みてくれる?」(かすれ声…)
(ええ、何だろう)という風に近づいてきてくれた。今なら二人しかいない、二人の前なら(きっとできるぞ)ドキドキ。
「からかさおばけとのっぺらぼう」という演目(?)を披露。
真剣に真っ直ぐわたしを見てくれている少女の眼。(上がっちゃうよ)
なんとか話し終えたら「こういうの初めて」と喜んでくれた。
「ありがとうございます」って女の子たち。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
紙芝居デビューを果たしたことでした。
『3つの停止原基』
デュシャンがもっとも驚異に感じていたのは『誕生』ではないか。生まれ出で存在することの奇跡、わたしという存在。
世界の中のわたし、わたしの中の世界、その関係性への深い眼差しが作品提示の根拠である。
偶然描かれた線描を元にした定規のようなものが3本、箱から出され並べられている。この3本に関係性はないが、類似の発生プロセスは推しはかることが可能である。
いかにも年代物の巧みな木箱に設えたガラス版の仕切りは正確に分割されているようである。しかし、留め金は締まるかもしれないが開閉自由の安易さがあり、軽重が混然とした不具合が垣間見える。
混沌を孕んだ木箱に、3つの停止原基が収まる仕組みなのだろうか。木箱の底面に落ち着くしかない3つは、収納された場合、取り出す時の困難はどう解消するのだろう。ガラス板の間隔、1/4(22.7−3)÷4≒5㎝では手が入らない。
いかにもという風に並べられているが、よく見ると、いかにも不具合そのものである。
『3つの停止原基』は存在しているが、単一無二の物であり、原基とは停止せざるを得ない代物である。(そしてそれはわたし自身でもある)
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
もうそのころは、ぼんやり暗くなって、まだ三時にもならないに、日が暮れるやうに思はれたのです。
☆案(考え)に算(見当をつける)。
字の化(形、性質を変えて別のものになる)を募(求め)試みること。
父は、以前まだわたしといっしょに縉紳館へ来れたころは、酒場のどこかで居眠りをしていて、あくる朝わたしがもっていく報告を待っていました。報告することは、あまりありませんでした。
☆父(宿命)といっしょにハロー(死の入口)へ来たころは、酒場(こぐま座/北極星の至近を回っている所)のどこかにすべりこみ、臨時にわたしがもっていく情報を待っていましたが、それは少ししかありませんでした。