水曜日の「歩こう会」、集合場所の横浜駅まで行くことは行った。でも無理を悟り、メンバーと別れ、電車・バスに乗っているだけで着く平塚市美術館へと一人で向かった。
息、絶え絶え・・・やっとの態。十歩も歩くと立ち止まる。
館内でも椅子を見つけては座り込む。
それでも、是非見たかった展覧会に間に合って満足。
見かけは元気そうなのに、足元不如意。
とにかく何とか帰宅を果たした。辛かった左足を見ると浮腫んでいる。
翌日、ラジオ体操に行こうとしたら突然の雨。そのままクリニックへ。
「ここではどうにもなりませんから大きな病院へ」と医師。
紹介状を持って横須賀うわまち病院へ。十時について検査・検査で午後四時半に終了。
「入院しますか?」
「いえ、」
「それでは、これから、毎日のように来ていただくことになります」「・・・」
青天の霹靂。
それでも大したことなくて良かったと能天気に構えている。
ああ・・・。
「運動してください」と医師。
座ってばかりの生活、血栓ができているという診断に力なく肯いた。全く何が起こるか分からない日常、「ああ…」ため息また一つ。
『花嫁』
タイトルなしにこの絵を見て(花嫁)を想起する人は皆無である。
タイトルを見て花嫁である要因を探そうとするが、欠片も見出せない。
この絵に描かれた物の正体を限定することは困難である、なぜなら部分であって全体ではなく、しかも既存の考えでは連結状態に難があり、作動を由としない構造なのである。どこに設置されたものか、目的も定かではない。ところどころ光っているが光源も不明であり、立体としてもこの構造を把握することが出来ない。
つまりこの存在は確定不能であり状況の認定が出来ないように意図して描かれている。そしてそのことを気づくように導く作意がある。
無目的な産物…これを『花嫁』と称している。たしかに(花嫁)という人はいない。仮初の一時的な愛称である。嫁(妻)になる人に《花という冠》をつける。花というイメージの幻は手にとって確認できるものではない。
そういう不確定の写実である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
子どもは口をびくびくまげて泣きながらまた起きあがらうとしました。
子どもはシと読んで、死。
口はコウと読んで、講。
泣きながらはキュウと読んで、究。
起きあがるはキと読んで、記。
☆死の講(はなし)を究め、記している。
あなたもご存じのように、従僕たちは、フリーダにとって悩みの種でした。実際はたいていおとなしい連中なのですが、らくな勤務のためにわがままになり、なまくらになってしまっているのです。
☆あなたも知ってのとおり、死人たちは、フリーダ(平和)にとっては苦しみでした。たいていは静かな人たちなのですが、微妙な立場のため、そのわがままな振る舞いが重苦しくなっていたのです。